アンパンマンが顔を食べさせることの意味

アンパンマン大図鑑―公式キャラクター2000

アンパンマン』原作者の体験と思想

アンパンマンができるまで その1 - 愚仮面

アンパンマン』の主人公「アンパンマン」が、自らの顔を食べさせることは、他作品にない大きな特徴になっている。なぜこのような設定になっているのかは、原作者のやなせたかし氏が発言している(上記から始まる一連の記事を参照のこと)。

それによると、やなせ氏は戦争によって、飢えの恐怖と、戦争の前後で正義が逆転する世界を経験した。そして行き着いた思想は、献身と愛という(戦争によって)逆転しない正義だった。目の前に餓死しそうな者がいれば、一片のパンを差し出すこと。それが、アンパンマンの原点にあるのだという。

また、やなせ氏は、『スーパーマン』や仮面ものに、誰のために戦っているか分からない、という感想を持ち、献身で傷つかずに正義は行えないとする。「傷」という言葉は、アンパンマンのテーマソング「アンパンマンマーチ」の歌詞にも見られるだろう。

さらに、悪役の「バイキンマン」との決着が完全につかない理由に対しては、菌類を完全に死滅させれば人類も滅びる、というような共生の思想を示した。ちなみに、文化人類学者の出口顕氏が、アンパンマンの顔を食べさせる行為と、臓器提供によって他者の命を救うこととの共通性を見出している。

アンパンマン」が顔を食べさせることの意味

上記を踏まえ、ここからは私が考察していく。

発表当時から、顔を食べさせるのが残酷だという感想はすでにあったようだ。現在でも、そのことに対する違和感の表明や、それをネタにしたパロディはネットで散見できよう*1

しかし、単純なカニバリズムではない、と私は考える。もう少し言うと、献身であっても犠牲ではないと捉えている*2。なぜそう言えるのか。

アンパンマン』では、顔を食べさせるほかに、その顔が交換可能であることが大きな特徴だ。顔を食べさせる献身的なテーマはすでに見た。しかしその一方で、顔を食べられることで主人公が犠牲になると、一話で終わってしまう。

そこで、パン工場主の「ジャム」が、パンを提供して顔を交換することで、そのジレンマを解決する。一人では戦えず、協力者が必要である、というのも共生の思想に矛盾しない。しかも、作品内の日常も描くことができ、上手い設定だと言える。

だがそれなら、単に予備のパンを持ち歩いて与えてもよさそうなものだ。なぜわざわざ顔を直接食べさせるのか。

もちろん、設定のさじ加減によって、顔を直接食べると通常よりも体力が回復するだとか、理由は与えうるだろう。ここでは、作品内の設定ではなく作品外から、顔を食べさせる設定にした意味を考える。

キリスト教の聖餐では、「最後の晩餐」にちなみ、パンはイエスの肉であり、ワインはイエスの血である、とされている。『アンパンマン』でも、宗教色こそないものの、ヒーローの献身的身ぶりを再確認(再生産・再契約)する役割を果たしているのではないだろうか。

つまり、救助に際して合理的だというよりも、共同体の儀式として意味がある、と私は考えている。犠牲が儀式へとソフィスティケートされているのだ*3

ヒーロー史における『アンパンマン』の位置づけ

書籍『物語工学論 入門篇 キャラクターをつくる』(新城カズマ) - 萌え理論Blog

『スーパーマン』『バットマン』『スパイダーマン』『ウルトラマン』『仮面ライダー』……といったヒーローものと『アンパンマン』との共通点は、勧善懲悪であることが挙げられる。逆に相違点は、表裏の顔の使い分けが指摘できる。つまり「ダークナイト」とはやや異なる。どういうことか。

ちょうど前のエントリ(上記記事参照)でも取りあげたが、『物語工学論』では、「二つの顔をもつ男」というキャラクターの類型を扱う。上のヒーローものがそうであるように、日常時の表の顔と変身時のヒーローの顔と使い分けている。しかも、その使い分けは、公的な法と私的な正義の解離*4に対応している。

しかし『アンパンマン』において、主人公アンパンマンは別の人物として振る舞わない。法と正義が解離するような場面も見られない。これは、子供向けのメルヘン形式*5だから可能なのだろう*6

このような性格を持つ他作品としては、作風は全く異なるが、『ゲゲゲの鬼太郎』が比較的近い。まず、主人公の鬼太郎が顔を使い分けない。そして、「妖怪」が出現する、日本的なファンタジーである。登場人物が不死の性格を持つ、擬人化*7されているという点も共通している。

実は『アンパンマン』も、表層に近代文化が入っているため見えづらいが、民話的性格が濃い設定なのではないか。冒頭で述べたように、菌類全体が必要であるため、バイキンマンも絶対悪ではなく、必要悪くらいの位置づけになっている。だから、善悪が対立する一神教的性格を持ちつつも、多神教の日本に溶け込める包摂力を持つ作品だと、私は捉えている。

そのように近い作品はあるが、顔を交換する部分は、やはり特異な設定*8で、他に類を見ない。あえて言えば、ゲーム全般の復活できるタイプの主人公が、交換可能性を持つ。しかし、それはゲーム上の約束事*9であって、ストーリーの主題になっている『アンパンマン』とは根本的に異なる。

余談

アンパンマンの頭脳は胴体にあり、顔というのは、表情を反映するモニタとエネルギーを補充するバッテリーでしかない、と私は捉えている。しかし、実はアンパンマンは顔が変わるごとに人格が再インストールされる(あるいはパッチ人格が追加インストールされる)、というようなパロディ的設定も思いつく*10

そこでのアンパンマンは、『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイのように、愛と勇気だけが友達の孤独な状態であるのか。『攻殻機動隊』のタチコマのように自我がないのか。『ロボコップ』のように、己の主体性を取り戻すのか。あるいは多重人格的なのか。まあこれは余談なので、長々と展開するまでもないだろう。

(追記:はてブブコメで指摘があったが、パンの中身にあんこでなくクリームを入れた回ではキャラが変わっていたので、人格再インストール説にも正当性がありそうだ。)

*1:自己犠牲をテーマにした原作とパロディの関係は、グリム童話星の金貨』と、『フルーツバスケット』における馬鹿な旅人の話にも見られる。こうしたパロディが作られる背景には、時代の流れというのもあるかもしれない

*2:ただし、たとえば顔を食べられたアンパンマンは非常に苦痛なのだが、周囲に悟られないようにしている、といった設定があれば、また変わってくるが

*3:これを作品内の設定にパロディ的に還元してみよう。すると、アンパンマンの顔を直接食べさせることによるジャムの思惑が見え隠れする。つまり、別に普通にアンパンを食べさせても構わないが、アンパンマンを神格化することによって、ジャムに権力・権威がもたらされるのだ

*4:たとえば『ダーティハリー』では、この解離、というよりも対立が前景化している。しかし、この解離がなくなればユートピアになるとも限らない。一方が消失した状態で実現する方が可能性が大きい。たとえば、全体主義社会か無法状態がそれにあたる

*5:たとえば、日本を舞台にしながらも妖精がいる

*6:あるいは、近代的ヒーローを超克した「千の顔を持つ超人」なのかもしれないが

*7:妖怪もパンも擬人化

*8:義手・義足をサイボーグ化している設定ならよくある。顔についても、『ドクタースランプ』の主人公・アラレは、取り外しが可能だが、日常的に交換しない

*9:バロック』では復活できることに物語上の意味を与えている

*10:失敗した顔を取り付けると黒アンパンマンになるだとか、他にも色々