図解・キャラ萌えの構造

図解・キャラ萌えの構造

この書き方だとサイレントマジョリティーはついてこれない気がする。
図で説明したほうがわかりやすい気がする。
はてブのコメント)


賛否以前に、そもそも私の主張が十分に理解されていないようなので、改めて解説します。まず最初に図から見てみましょう。

作品の立体像


古典的な基準で優れた作品は、立体的な構造をしています。鑑賞者は何回も作品を鑑賞し、角度を変えて見ることで、作品の異なる面を発見します。人物造形、物語の筋、設定や世界観、文体やタッチなど様々です。さらに、業界人でないと分からない楽屋や舞台の裏面もあることでしょう。


さてここで、もちろん人物も一つの面です。が、人物だけ、さらに特定の人物だけを見ている場合に、文字通り一面しか見ていない、トータルに見ていない、という批判があるでしょう。これ自体はまっとうな主張です。それは良いのですが、それとはまた違った見方がある、ということを述べたいのです。次の図を見てみましょう。

作品(群)の多重平面像


前に見た古典的作品に対して、萌え系作品では厚みが薄くなっています。これがよく薄っぺらいという批判になります。しかし、薄いからこそ重ね合わせて透けて見えるのです。一つの作品で完結した世界を描く・見る、というモダンな前提をそもそも取っていません。例えば同人誌が薄くても成立するのは、差分のセルを載せるだけで済むからでしょう。これは二次創作に限らず、メディアミックスでも同じです。


ここでは、一つの作品をトータルに見ていません。しかし、表層の一面しか見ていないからこそ、作品群(レイヤー)の重なり方を見ることができるのです。これをトータルに対するインテグラルな見方としておきます。この二つの関係はパラレルで、どちらかがどちらかを包摂するわけではありません。またもちろん、トータルに見よう・見せようとして失敗することもあるし、インテグラルに見よう・見せようとして失敗することもあります。そして、複数の作品を媒介するのは主にキャラになります。そこで次の図でキャラを見てみましょう。

キャラ(萌え)の構造

  • 属性
    • 零次創作単位。作品の区別はない。人物に複数記述できる。
  • 登場人物
    • 一次創作単位。複数の作品に同一の登場人物は存在しない。
  • キャラクター
    • 二次創作単位。複数の登場人物を包括することができる。
  • キャラ
    • 高次創作単位。複数のキャラクターを包括できる。また、一人の人物に複数存在することができる。
  • 一覧
    • ハード← 属性 < 登場人物 < キャラクター < キャラ →ソフト


まずキャラの単位系について。ここでの定義では、登場人物は原則として一作品一人です。エヴァの同人誌Aと同人誌Bの「レイ」は、同じキャラクターですが、違う登場人物です。二次創作は「同じ」ことによって二次性を持ち、「違う」ことによって創作性を持ちます。キャラクターは複数の登場人物として描かれますが、キャラクター自体は同一性を持ちます。つまり、似てるか似てないかはあっても、他のキャラクターと同一人物になることはありません。例えば、この登場人物はレイかつルリである、というのは認められません*1。これがキャラになると、複数のキャラクターを包括できます。例えば「レイとルリはキャラがかぶっている」というようなことです。また一人の人物に複数存在できます。例えば「このレイには天然キャラとお嬢様キャラが入っている」というようなことです。


普通の区分では属性とキャラは混同されていますが、ここでは分けました。では、眼鏡属性とメガネキャラの違いはどういう基準なのでしょうか。属性はハード寄りのプロパティで、文字通り眼鏡を掛けていることだけを示します。三つ編みと親和性があるという場合は、属性間の関係です。一方キャラはソフト寄りのプロトタイプで、メガネキャラは、ドジであったり、大人しかったり、という複数の属性を統合できます。まあ言葉の問題ですが、付属した言葉も整理しておきます。いわゆる「キャラ立ち」とは、キャラクターが成立し、従って二次創作が可能になる条件です。ここで、二次「創作」というためには、二次物間に差ができなくてはいけません。だから「身長165cm」とか「氏名は山田太郎」とか、単なる識別性を指すのではありません。


次に(キャラ)萌えのメカニズムについて。アニメーションの動画を、静止画の状態で一枚一枚個別に見ても「動き」は見えません。一定の速度で連続して見ることでアニメになるわけです。こうした飛躍と補完の仕組みは、小説の行間やマンガのコマなど、他のジャンルでも見られます。ゲームでは機械を介して、その操作を外在化・複雑化しています。そして、「萌え」もこの「動き」と同じ構造を持っています。ここで「好意」と「萌え」がどう違うかという素朴な疑問に回答を出しておくと、好意の対象が人物であるのに対して、萌えの対象は人物「間」の「動き」のような差異・変化が対象になっています。


人物間の動きが萌えだと言いましたが、それは同一キャラ「間」の関係であるために、分かりにくいものになっています。簡単な基準としては、人物が複数描かれかつ一人のキャラクターとして統合されていることが萌えの条件になります。もう少し細かく分けると、キャラクターが燃えでキャラが萌えになります。原作単体に対するレベルでは普通の「好き」で、(脳内補完も含めた)続編・移植・二次創作に対するレベルが燃えで、長門には綾波のキャラが入っている、という作品世界を超えたレベルが萌えです。この拡散が燃え萌え変換。しかし、長門が単に綾波からキャラを継承しているだけではなくて、作品内部で独立したキャラ立ちが成立すれば、長門燃えも可能になります。この収束が萌え燃え変換。


アニメの喩えを使ったのは、ここで速度を問題にしたいからです。あくまでも古典的な鑑賞法が基本・本体で、キャラ萌えはその一部・応用・拡張・付録…だという風には、ここでは捉えません。なぜか。動き・萌えが生じるためには、複数のイメージを一定の速度で連続して見る必要があります。そのとき、一枚の止め絵(作品世界)の完成度にだけ注目すると、かえって動きを見逃してしまう。独立した作品世界の整合性にこだわると、他の世界と重ね合わせられなくなります。資本主義や消費社会の問題は別として、一定の速度で消費することに意味がある場合もあるのです。なぜならここでいうレイヤーは読者の記憶で成立するので、時間経過と共に古いレイヤーが消失するからです。そして、単なるパターナリズムマンネリズムは前近代からあったでしょうが、メディア技術・複製技術の進歩による、速度の加速が決定的な影響を与えています。

付録・寄せられた批判の検討

ロリコンファル - 物語一つ一つの固有性


前回前々回の記事にトラックバックが来ていますが、ロリコンファルさんの記事で代表して検討しておきます。

こういう分析って、昔からありますよね…。


単にパターンがあるという分析ではありません。

それと個々の作品の固有の物語性を観賞することは別のことですからね…。
なんでそれが一緒くたにされているのか、よく分からないのですが…。


一緒にしていません。立体視と多重平面視は別々の見方です。

固有の物語の登場人物
としての差異(独自性・オリジナリティ)が必ずあって、そのオリジナル性こそ、
キャラを好きになる最も核心的な部分ではないのかなと私は思いますね…。


オリジナル性で好きになる部分と、オリジナル性がなくても好きになる部分があります。ここで私は両者を並列させており、前者の方がより核心に近いとは考えていないわけです。

こういった作品の固有性の価値を外した形でキャラ萌えを分析することは、
大枠としての分析以外には役立たないのではないかと私は思います。


先にアニメの一枚絵の喩えで述べたように、作品の固有性にこだわるとかえって、動的な萌えを見逃してしまいます。

物語性が、萌え属性を駆動している訳です。


必ず物語性が先行して、それを土台にして萌えが駆動するとは限りません。アニメをコマ送りで見ると、一枚一枚は結構不定形に描いているけれど、連続して見ることで形になっているということがよくあります。全体の萌え集合が先にあって、そこから物語性が分化してくることもあるでしょう。

「作品固有の物語性を観賞する力が低下している」ということを肯定してしまうのは


古典的な鑑賞力の低下を肯定しているわけではありません。

カオスを重視するなら、「キャラを通じて物語群を表面的に見ること」とともに、
「物語を通じてそれぞれの固有性を認識すること」も大切ではないでしょうか…。


両方大切にするのは良いのですが、立体的な見方と多重平面的な見方は同時に両立はできません。多重化というのは、個々の作品世界の固有性をある程度フィルタリングすることで成立します。例えば「スーパーロボット大戦」で、個々のロボットの背景の設定をあえて無視しないと、遊べないゲームバランスになってしまいます。一般的に、メディアミックスで何々がアニメ化したりゲーム化したりする際には、なるべく原作を尊重するにしても、最終的にはそういう意訳が必要になってきます。そしてさらに、そのような二次的な加工が特殊で例外的だというわけでもありません。なぜなら、すべての一次創作は究極的には二次創作だからです。(言語芸術について言うと)言葉は創作する時点で既に流通しています。


以上のような私の主張は不自然に見えるかもしれませんが、私は別に古典的な鑑賞法を否定しているのではなくて、単に新しい見方のモデルを作っているのです。それはどちらかが正しいということではなくて、共に真でありえます。それは平面幾何と球面幾何のどちらかしか正解はないとか、核心に近いということではない、ということに似ています。それに退屈な説教を反復してしまうのでは、「萌え」「理論」の看板に反するでしょう。

*1:ダブルパロディはありますが、ここではキャラの生成と捉えます。つまり、サザエボンはサザエでもバカボンのパパでもなく新しいキャラクターなのです