東京藝術大学・公開討議「セカイ系という想像力」レポート
記事概要
2010年7月17日(土)、東京藝術大学・上野キャンパスの講義室で、同大学の連続公開討議「SPECULA」の第3回講演が開催された。
第3回講演のタイトルは、「セカイ系という想像力」。00年代のアニメやゲームなどで流行した「セカイ系」というキーワードを軸に、現代文化の想像力について討論する。
美術とサブカルチャーを横断し、現代文化の最先端を論じようという企画だ。筆者は実際に会場で聴講してきたので、その模様をお伝えしよう。
概要:「SPECULA」
- Specula(公式サイト)
2010 東京藝術大学先端芸術表現科 / 大学院 映像研究科 パラレル・プログラム
SPECULA[スペキュラ]
連続公開ディスカッション〈21世紀芸術論〉全8回
主催・運営=東京藝術大学美術学部先端芸術表現科+大学院 映像研究科
コーディネーター=千葉雅也(哲学・表象文化論)、池田剛介(美術家)
(各回、レギュラー・ディスカッサントとして参加)
監修=木幡和枝(先端芸術表現科教授)、桂英史(映像研究科教授)
概要:「セカイ系という想像力」
- Specula
- ゲスト
- 黒瀬陽平
- 美術家、批評家、東京藝術大学大学院博士後期課程在籍
- C h a r a c t e r i n t h e E x p a n d e d F i e l d
- 前島賢
- ライター、評論家、著書『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』
- parallel loop
- 黒瀬陽平
ゼロ年代を通じてアニメやマンガ、ゲームといった日本のサブカルチャーシーンを席巻した「セカイ系」というターム。この言葉が持つ可能性を様々な角度から検証し、現代文化における先鋭的な想像力のかたちを模索する。
冒頭:社会的なコミットメントをいかに迂回するか
講演の冒頭では、監修役の木幡和枝氏が、開幕のあいさつをした。そのあいさつでは、「『スペキュラ』という討論のシリーズを行なっております。スペキュラ全体は狭い意味での芸術に終わりません。『芸術論』の3文字よりも余白があります」と議論の広がりを強調した。
そして、レギュラー講演者の千葉雅也氏が、「前回はセザンヌの話だった。それがいきなりセカイ系の話では、唐突に思うかもしれません」と前置きした上で、これまでの講演を振り返りつつ、討論の問題意識を位置づけた。
それによると、第1回の講演では、講演者・岡崎乾二郎氏が、芸術と時間という観点から、「社交的な現在性」という概念を提出した。「社交的な現在性」というのは、その時代の流行を取り入れてコミュニケーションを図るような性質のことだ。
芸術家や作家は、その「社交的な現在性」に乗るのではなく、むしろ降りるべきだという。だからといって、単に古い時代に回帰すべきだということでもない。「バラバラな時間を組み合わせる」という、「ディスジャンクション(離接)*1」の運動が重要なのだ。
また、第2回の講演では、講演者・荒川徹氏が、芸術と自然という観点から、「サブネイチャー」という概念を提示した。「サブネイチャー」とは、文化におけるサブカルチャーのように、副次性を持った多面的な自然のことだ。
すなわち、「社交的な現在性」も「サブネイチャー」も、「大文字の歴史」や「大文字の自然」から降り、「社会的なコミットメントを迂回する」ための概念装置だ。
一方、セカイ系作品では「ボクとキミの関係が、セカイの問題と直結」してしまい、「社会の次元がスルーされてしまうことが指摘されている」という。
したがって、社会的コミットメントの迂回路という概念を通じて、前回までと今回の講演との問題意識が連結されるのだ。
導入:「セカイ系はどこから来たか」
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千葉氏の説明が終わると、議論のイントロダクションとして、ゲストの前島賢氏がセカイ系の歴史について、プレゼンテーションすることになった。
先に断っておくと、前島氏の著書『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』を要約した講演内容の、さらなる要約が以下になる。議論の詳細は、前島氏の著書をご覧頂きたい。
主人公とヒロインを中心とした小さな関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」など、抽象的な大問題に直結する作品群のこと
(『美少女ゲームの臨界点』、波状言論)
前島氏の説明によると、上記のような「セカイ系の一般的な定義」は、セカイ系の代表作とされる『最終兵器彼女』『イリヤの空、UFOの夏』『ほしのこえ』ですら矛盾してしまう。
そもそも、「セカイ系の誕生」まで遡ると、ウェブサイト「ぷるにえブックマーク」の管理人・ぷるにえが「エヴァっぽい(=一人語りの激しい)作品に対して、わずかな揶揄を込めつつ用いる」造語であった。つまり、「エヴァっぽい作品」のことをセカイ系と呼んでいた。
その「エヴァっぽさ」とは何かというと、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の「膨大な設定、伏線、ハイクオリティな作画」だった前半部分よりも、後半の主人公が悩み、監督・庵野秀明の自意識に焦点が向く部分を指す。
だが、自意識を描く作品は、たとえば太宰治の作品など、90年代以前にもあった。それがセカイ系と改めて呼ばれるのは、「オタクの作品受容態度の問題」が関係する。
その受容態度とは、作品自体よりも、その細部や世界観に注目するものだ。岡田斗司夫『オタク学入門』の「オタクは作品の差異、細部、引用に注目」するという指摘や、大塚英志『物語消費論』の「物語を通じて『世界観』を切売りする」という「物語消費」という概念が示している。
前島氏は、「『エヴァ』を見て、オタクになりたいと思った」が、オタクの先輩たちの間では「『ガンダム』を知らなければ、発言権がなかった」という、抑圧された*2状況があったらしい。
『エヴァ』ついても、物語や設定の謎が明かされないまま終わったから否定する『エヴァ』以前のオタクと、「シンジとシンクロする」ように共感することで肯定する『エヴァ』当時のオタクで、評価が分かれた。そのように、セカイ系のムーブメントは、オタク内の世代間闘争の面があったという。
その後、東浩紀、斎藤環、笠井潔、佐々木敦らが批評で扱い、さらにマスコミが注目することで「セカイ系」の知名度が上がった。そのような現象をもとに、「その後のセカイ系」(谷川流『絶望系 閉じられた世界』など)も展開した。
しかし、05〜06年くらいをピークに、『Fate/stay night』のような「物語消費の要素を持つバトルものなど」が隆盛していった。そして、『らき☆すた』、『けいおん!』などの日常系・空気系作品や、『東方project』、「ニコニコ動画」のコンテンツなど、CGM(消費者生成メディア)的作品が流行しているのが「オタク文化の現在」だ。
「発表者(前島氏)の問題意識」としては、「セカイ系のムーブメントは終わった」が、それが担っていた「自意識、物語、批評性……=作家性はどこへいくのか?」、ということに興味があるようだ。
この日の前島氏は、次のように真剣な問題意識を示した。オタク的な自意識に向き合うのは気持ち悪いかもしれない。だが、そこに作家性や批評性が宿る。したがって、それを避けてはセカイ系作品は語れない、というものだ。
しかしその一方で前島氏は、平易な語りと独自のユーモアで、何度も会場を和ませた。結果的に、堅苦しくなり過ぎずに、エンターテインメント性も持ち合わせたイベントになったと思う。
議論:セカイ系と『日本・現代・美術』
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前島氏のプレゼンテーションを受けて、ゲストの黒瀬陽平氏がセカイ系と美術の関係について説明する。その説明は、『思想地図 vol.4』に収録された「新しい「風景」の誕生―セカイ系物語と情念定型」という、黒瀬氏の論文を背景にしている。
どういうものかというと、椹木野衣『日本・現代・美術』とセカイ系作品(具体的には、『AIR』のようなノベルゲーム)に、遠景のトラウマと近景のインターフェイスが解離している、という相同性を見出すものだ。
『日本・現代・美術』では、前景のキッチュな現代美術を通して、遠景のトラウマ=敗戦にアクセスできた。一方、セカイ系作品では、前景のキッチュなインターフェイス(たとえばノベルゲームの立ち絵)を通して、遠景のトラウマ=ヒロイン・セカイの問題にアクセスできた。したがって、同型だというわけだ。
それらには、オリジナルなものを作っても評価されない、世界が複雑化してコミュニケーションでお互いに理解できない、といったような諦念が背景にある。それが表面のイメージを特異なもの(情念定型)にしていく。このことを黒瀬氏は、「イメージにバイアスを掛けて、そこにコンテクストを放出する」と表現した。
しかし、レギュラー講演者の池田剛介氏は、そこに疑問を呈す。それによると、『日本・現代・美術』は、現代美術から始まり、過去の作品へと遡っていき、戦時中まで遡るというパースペクティブを持っている。したがって、近景と遠景が解離したセカイ系作品とは、別なのではないかという。
これに対して黒瀬氏は、「本(『日本・現代・美術』)全体を見ると、章ごとの構成が同じ。どの年代でも同じ事が起こっていることを示した。いびつなパース」*3だと応答した。
しかし、千葉氏からも、「チャレンジングな読みだが、拡大解釈ではないか」と疑問が寄せられる。さらに、「トラウマを反復するというのは、すでにフロイト先生が仰ったこと」だから、セカイ系でしか説明できないものではないとした。
ここで黒瀬氏は、「コンテクスト・リーディング(作品自体よりも、それが置かれた文脈を読む解読)」から切断して、作品自体を読む鑑賞に戻したのがセカイ系作品だった、とその意義を強調する。
つまり、コンテクスト・リーディングばかりで、作品自体を見ようとしない状況が、(前島氏が言うように)サブカルチャーにも、(椹木氏の「悪い場所」論のように)現代美術界にもあった。それを解体しようとしたのが、『日本・現代・美術』であり、セカイ系であったという話だ。
これは私見になるが、美術史的な正当さよりも、サブカルチャーのような美術界の外部との接合と、そのことによる状況への介入を、黒瀬氏は意図していたのではないかと思う。
議論:セカイ系とロマン主義の想像力
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ここで池田氏が、「そのような問題系は反復されている」と発言した。そして、『社会は存在しない――セカイ系文化論』収録の「『イリヤの空』、崇高をめぐって」という佐藤心氏の論考を挙げ、「カント的な崇高さ」について説明している。
それによると、「カント的な崇高さ」とは、「表象不可能なものをいかに見るか」の概念だという。たとえば、岩山や大海などの大自然に対して、「把握できないということにおいて、偉大なものに近づくのが崇高さ」だ。そして、その崇高さにおいて、セカイ系作品と共通性がある。
佐藤氏の論が扱う『イリヤの空、UFOの夏』では、水前寺と浅羽という登場人物が、「どういう形で世界に接近するのか」に違いが見られるという。
「水前寺は世界の謎そのものに注目する」のに対して、「浅羽は自己意識を肥大化させることで、そこに巻き取るような形で世界を認識する」という差がある。
さらに、『エヴァ』の前半が水前寺的であり、後半が浅羽的だと類比できる。『エヴァ』前半は、主体(シンジ)と客体(世界の謎)の二元論だが、後半は主体の内面に一元化されていく。
池田氏は、「カント的な崇高さは、ロマン主義の話でもある」と、さらに議論を広げる。会場のスクリーンには、ロマン派の画家・フリードリヒの絵画「霧の海を見おろす散歩者」*4が映し出された。
この絵は、広大な霧の海と空*5に、人物が向かい合っている*6。把握しきれない対象に向かい合うことで、崇高さを感じるというわけだ。
しかし、池田氏はそれを「第一段階の崇高さ」と位置づけた上で、次の段階を示す。そのために、ロマン派の画家・ターナーの絵画が、会場のスクリーンに映し出された。
後期ターナーは、後の印象派を先取りしたような、描線が曖昧な画風になっている。そのことを池田氏は、「主客二元論が成立せず、自意識に世界を巻き込んでいく」点で、セカイ系との通底を指摘した。
これについて千葉氏は、「私=世界」という構図の「ポスト・セカイ系」「超セカイ系」ではないか、という発言もしている。
さらに池田氏は、アカデミックでコンテクストを重視する新古典主義と、ロマン主義とを対比した。ターナーはコンテクスト・リーディングに覆われた「悪い場所を転覆させる」のであり、コンテクスト・リーディングからの切断は、美術史に見出せるとしている。
美術史の素養がない筆者としては、とても分かりやすく、かつ面白い講義に満足した。
議論:ポスト・セカイ系と「カオスラウンジ」
休憩を挟んだ後に、議論は「ポスト・セカイ系」の話題へと向かう。黒瀬氏は、セカイ系後のコンテンツについて、「自意識に巻き込むこと、そのものに失敗している。新たなスタイルは出ていない」と、作家性のある作品の不在を示す。
また、黒瀬氏と前島氏は、アニメ『劇場版 涼宮ハルヒの消失』について触れた。前島氏によると「キョンの自問自答を、観客に向けている」作品だったが、周囲は「長門が可愛いからいい」というような反応だったという。
これについて黒瀬氏は、「わざわざ劇場まで行ってバイバイ、という京アニの悪意。しかし、その悪意すら通じないのが、ポスト・セカイ系」の時代だとした。
そして、池田氏が「空気系はコミュニケーション空間、ミニマムなコミュニティを眺める。しかしむしろセカイ系は、それを断絶するところに可能性がある」と発言。
千葉氏が「話が一巡した」と言うように、ポスト・セカイ系の時代に作家性や批評性はどこに行くのか、という前島氏のプレゼンテーションの問いに戻ってきた。
そのような状況での批評性を探る試みとして、黒瀬氏のアートイベント「カオスラウンジ」と、続編の「破滅ラウンジ」に話が及んだ。
黒瀬氏は、「アーキテクチャーに踊らされているだけなのか。たとえばニコニコ(動画)だから、ニコニコらしい作品が上がってきて面白い、ということだけでいいのか」という問題意識を持っていた。
そこで、「破滅ラウンジ」では、「アーキテクトに介入できる人物」として、「アーリーアダプター層*7」の「オタクだが、職能としてはプログラマ、エンジニア」を招いた。そして、そういう「彼らが寝泊まりすることで、共感に異物を差し挟む契機」になったという。
イベントでは、「うしじまさん(コスプレイヤー)の撮影会があった」「コスプレ写真を撮る人は、うしじまさんしか見ていない。プログラマはパソコンしか見ていない」という状況があった。
そこでさらに、プログラマが、会場のPCを使ったチャットでやり取りした画像がスクリーンに映される、というプログラミングをしたらしい。「盛り上がる裏で、インフラをどうするか。盲目的な没入から、覚めることができるか」という、黒瀬氏の問題意識が背景にあった。
黒瀬氏によると、プログラマはアーキテクチャーに自分の身体を沿わせようとし、結果的に(徹夜などで)身体がボロボロになるような、「破滅的」なところがあるのだという。そこで、「『ハルヒの消失』を見ても悪意が消される状況に、どう暴力的に介入するか」という意識から、その破滅性を取り入れた。
黒瀬氏は、「僕と浅子さん*8で会場を設計した」「当初の企画では、5〜6個のブースがマンガ喫茶になっている、という展示を考えていた」。それは「メディアアートを見に来たと思ったら、マンキツだったという、前の世代のメディアアートに対する悪意」だったのだ。
しかし、参加したプログラマたちからは「僕らは家具はいらない。その辺りに寝そべってやる*9」と言われた。結果的に、会場の中に電源を置き、電源さえあればそこに集まってプログラミングする、黒瀬氏が思いも寄らなかったスタイルになったという。
その後の議論では、セカイ系とジェンダーの話題が上がった。「上の世代の腐女子と話していると、『セカイ系』という言葉すら知らない」(千葉氏)。「(セカイ系の“キミ”と“ボク”という関係のうち)“ボク”の方からしか見ていない」(木幡氏)。というように、セカイ系が男性オタクのムーブメントであることが示されている。
質疑応答:セカイ系の普遍性と歴史性
イベントは質疑応答の時間に入った。そこで、筆者は「池田さんは、セカイ系を普遍的なものとして、美術史に見出す立場を取りました。しかし、前島さんは、あくまで『エヴァ』以降の歴史的な立場に立ちます。それについて、千葉さんと黒瀬さんはどう思われますか」というような質問をした。
千葉氏は「両方の視点が必要」と発言。自意識などの問題は、過去の美術史に見出せることではあるが、それが90年代のオタクアニメに現れたことの必然性もあり、どちらか一方ではないとした。黒瀬氏は「『セカイ系』という言葉を使って、その人が何をやりたいか」だと補足。
もうひとつ、「コンテクスト・リーディングからの切断によって、素朴な鑑賞態度に戻るというお話がありました。しかし、それは、セカイ系の後のオタクが、単純に知識・教養が低下した、ということなのでしょうか?」という疑問を投げかけた。
これについて前島氏が「(作品の数も増え、wikiの解説なども増えた現在では)僕の頃よりも、むしろ知識が増えているのでは」「ただ、特定の作品を知らなければならない、という圧力がなくなった。“萌え”は個人の嗜好なので、萌えているという人に対して、それは違うと言っても、仕様がない」と答えた。
つまり、世代の上下で優劣をつけなくても、ポスト・セカイ系の作品は、個人で消費するために、かつてのように知識を競う場面が減った、という解釈もできるのだろう。
この回答に、筆者は納得した。もしかしたら、講演者の方たちにとっては、愚問だったかもしれないが、確認しておきたかったのだ。
その後の応答の中で、監修役の桂英史氏が、「物と情報の対立」という黒瀬氏の論点について触れた。たとえば、「アートアニメーションはいまだにフィルム」であるという。「物は固有名、情報は匿名(という二項対立がある)。それを壊すのか」と問いかけた。
これについては千葉氏が黒瀬氏の「情報的身体としてのキャラクター」というコンセプトに触れつつ、「物と情報という二項対立に還元されない、新しい“モノ”性」という発想を提示している。
最後に、この日の司会進行を見事務めた千葉氏が、「幅のある議論ができていればよいと思います。今日はお暑い中、お集まり頂いて、ありがとうございました」と挨拶すると、大きな拍手に包まれて、イベントは幕を閉じた。
感想:
筆者の感想、というより触発されて考えたことを述べたい。まず、討論の軸になったのは、コンテクスト・リーディングからの切断、という構図だと捉えている。
討議では、セカイ系に普遍的な図式を見出す視点と、90年代アニメの歴史性に立脚する立場とに分かれた。しかし、そのいずれにしろ、コンテクスト・リーディングからの切断を、セカイ系の意義とする点では、共通しているだろう。
それを考える上で、やはり『新世紀エヴァンゲリオン』の影響は大きい。「アニメらしいアニメ」のイメージは社会的に固定されている。しかし、『エヴァ』はそのアニメジャンルの外部まで影響を与えた。
だから、冒頭にあったように、狭義の「芸術論」に留まらないこの講演で、エヴァに端を発するセカイ系の可能性を検討しよう、という意図はよく理解できる。とても意欲的な企画で、こういう機会がもっとあれば良いと筆者は思った。
ちなみに、95年当時の『エヴァ』を見た者が挙手を求められた場面がイベント中にあり、来場者の大部分*10が手を挙げていた。やはり『エヴァ』の影響は大きいようだ。
じつは、コンテクスト・リーディングから切断する、という発想自体は、90年代当時からすでにあった。具体的には、東浩紀『郵便的不安たち』に収録された「庵野秀明は、いかにして八〇年代日本アニメを終わらせたか」という文章がそうだ。
しかし、現在のポスト・セカイ系の状況では、コンテクスト・リーディングよりも、「コミュニケーション・リーディング」とでも言うべきものが、有力になっているのではないか。
筆者が考える「コミュニケーション・リーディング」でも、テクスト自体が読まれないのは、コンテクスト・リーディングと同じだ。
しかしそれは、作品の差異・細部・引用を読むからではなく、むしろ作品を横断するキャラクターの同一性・全体・発話(つまり、CGM全体の中で、同じキャラクターが、個別の発話をすること)に注目するから、テクスト自体が読まれないのだ。
また、「物語を通じて『世界観』を切売りする」という「物語消費」よりも、「媒体を通じて『身体』を切売りする」という「属性消費」の方が強くなっているのではないか。
たとえば、フィギュア市場の隆盛がある。フィギュア関連ではさらに、美少女ゲーム『se・きらら』が挙げられる。同作品が画期的なのは、フィギュアが本体の商品で、ノベルゲームはその販促物*11だという流通形態だ。
フィギュアには、物語もセカイもない。物語性を背景にはしているだろうが、フィギュア自体に物語はない。その代わり、身体がある。「髪型」「体型」「衣装」のような属性が具現化している。そこで、属性消費ができるのだ。
そして、ポスト・セカイ系では、『初音ミク』や『アイドルマスター』のように、バーチャル・リアリティによって、キャラクターと一種のコミュニケーションをしているかのような作品が流行している。
そこでは、作家性や批評性が、基本的にかえりみられない。なぜなら、作家が作ったコンテンツというよりも、自律したキャラクターとのコミュニケーションとして見ているからだ。
では、コミュニケーション・リーディングからの切断は、いかにして行なわれるのか。ここで、『エヴァ』の話に戻ろう。セカイ系の元祖である『エヴァ』は、すでにポスト・セカイ系を先取りしてもいた。
『エヴァ』は、本編のラスト付近で、すでに二次創作の存在を意識していた(学園エヴァ)。そこで劇場版では、キャラクターを崇高というよりも、むしろ不気味なもの*12にしている。たとえば、巨大化する綾波がそうだ。
『エヴァ』後半では、物語を放棄することで、コンテクスト・リーディングから切断した。だがその代わり、キャラクターへの感情移入は強まっていき、二次創作のような当時のCGM的消費がすでに強まっていた。
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*2:しかも、その当時は現在よりも、アニメ作品を入手しにくかった
*3:これは、この後に木幡氏が提示した「ある世代内を、コンプレックスがうずまく」、「(世代ごとに輪が積み重なる)輪投げのようで、スパイラルではない」、という図式と照応するように思える。
*4:この絵は、中景抜きに近景=人物と遠景=霧の海が直接向かい合う構図になっている。中間項抜きのセカイ系の物語構造と相同性があるという解釈もできる
*5:佐藤氏は、セカイ系作品における「空」を、崇高さや「現実界(直接把握できない世界の実体)」の表現と捉える、という議論もしている
*6:絵画の鑑賞者に対しては、背中しか見えない。そして、その構図は、無限の世界に対して、有限の身体に囚われていることの現れでもある
*7:これは、千葉氏の言った「ギーク」の方が、分かりやすいかもしれない
*8:インテリアデザイナー・建築家の浅子佳英氏
*9:ちなみに、路上で立ちながらPCを使うことが「ストリート・コンピューティング」などと称されていたりする
*10:目視なので正確な数は分からないが
*11:無料で配布しているのだから、逆ではないだろう
*12:『エヴァ』は全体的に、カント的な崇高さよりも、フロイト的な不気味さの方が強いような気がする
*13:もちろん、グレートマザーがどうこうといった、他の解釈も並立して可能だ