オタクは二度死ぬ

参照

  • オタクの目

オタキングの涙・・・・

  • 青ひげノート

僕はオタクですか?
オタクなんて消えるべきです

オタクは、自らの中に! −流通を超える意志−
オタクについて −インタレストへの抵抗−
創作料理とファーストフード −マクドナルド化するオタク世界−

 さらにここ最近の「オタクブーム」により、年齢層を問わず第三世代的な“オタク”が一気に世間にあふれ出し、本来の「おたく」の存在意義は失われたと、岡田氏は語る。

 と、説明した岡田氏の口から「オタキングは死んだ」とのフレーズが出た次の瞬間、氏の目元から熱いものがあふれ、それまでの冗舌がが止まった。

 まさにオタキングが死んだ瞬間に、われわれは立ち会ったのだろうか。
オタキングの涙・・・・ より)

うう、確かに今は、流通的ムーブメントが全てを支配しているような感じで、オタクの良さだった多様性、「誰がなんと云おうと俺はこれが好きだ!!」という衝動が失われ、ただただ流通的なものだけが記号的に消費されているような感じだけど…、

いや、オタクはまだ死んでない!!俺が、俺が残ってる!!
(オタクは、自らの中に! −流通を超える意志− より)

いや気持ちは分かるんですけどね、「おたく」とか「オタク」とか第1世代とか第2世代とか第3世代とか、そうやって定義付けして過去の自分たちに感慨深い気持ちを抱くのは結構ですが、多くの文化や作品が多くの人に触れられるようになったのは良い事だと思いませんかね?例えそれがマスコミに躍らされている消費者群だとしてもさ。こういうお話を読むと、秘密基地を大人に見つかった小学生がワンワン泣き喚いているようにしか見えんのよね。
(僕はオタクですか? より)

ネタにマジレスは申し訳ないなと思うんですが、オタクは権威主義的な学者とは違いますよ。岡田さんの云ってることは「インタレスト(現実的な利害損得関係)へ抵抗し、自分の本当に好きなものを見つける意志」ということですよ。

つまり、例えば、ある街に五つ映画館があって、それぞれ別の作品ABCDEを放映中。その中ではAという映画が流行っていて、B、C、D、Eの映画は寂れている。学校ではAの映画がみんなに大人気で話の種。その時、学生さんがどうするかってことで、

①Aって映画を見に行って、みんなの話に加わる。一般共同体的利益(仲間内親密性)が増大。
②ABCDE全部の映画を見に行って、その中から自分の好きな映画を褒める。自己尊厳の増大。
③ABCDEのうち、映画評論家が褒めている映画だけ見に行って、その映画を褒める。
権威主義的グループ内においてのみ共同体的利益(仲間内親密性)が増大。

①が一般人の行動パターン
②がオタクの行動パターン
③が悪い意味での学者(権威主義者)の行動パターン
(オタクについて −インタレストへの抵抗− より)

正直昔のオタクとか今のオタクとか、色々なご意見がありますが「オタク」って言葉を作って括ってしまった時から、偏見への道が作られてしまったのではないでしょうか。
「自分達を他の人から分け隔てよう、他の人と自分達は違うんだ」
昔の人達からはそんな声が聞こえてきそうな気がします。だから僕は学者みたいだ、と言ったんです。自閉的なイメージが頭の隅の方にこびり付いちゃってるんですね。
"マーケティング戦略に惑わされず、自分の本当に好きな作品を見つけたい"=自閉
というのなら、僕はもうオタクと名乗るのは今日限りで辞めさせてもらいます
(オタクなんて消えるべきです より)

大衆受け(大量生産・大量消費)するために、内容を一般化してゆくんですね。そうすると「俺達の好きなものを作る!」という気持ちはどこかにいってしまうし、「俺達の好きなものを買う!」も、結局は、なくなってゆく。最初から嗜好最適化されたものばかりになるんですね。作品のファーストフード化です。
(創作料理とファーストフード −マクドナルド化するオタク世界− より)

(引用は改行など適当に整形)

要約

議論の流れを整理すると、まずオタキング岡田のオタク(オタキング)は死んだ宣言から始まりました。ロフトプラスワンに行ったわけではないので詳しくは知らないのですが、レポから見る限り三世代の話*1は次のように整理されます。

  • 第一世代

自分が好きなことに関して何か行動してやろうという趣味人(おたく)

  • 第二世代

世間の風潮に抗い〜社会というものを意識する傾向(オタク)

  • 第三世代

自分の興味がある作品に関しては深く追求する〜一点主義的な人(オタク)

さらにここ最近の「オタクブーム」により、年齢層を問わず第三世代的な“オタク”が一気に世間にあふれ出し、本来の「おたく」の存在意義は失われたと、岡田氏は語る。


これを受けて、kagami氏がそもそも一人でもおたくたりえるとする一方、terasuy氏はむしろ一般に浸透していくことを歓迎します。更に二人の議論の中で、terasuy氏が閉鎖的で権威的なのがおたくなら、そもそもそんな枠組みは消失しても構わないとするのに対して、kagami氏はファーストフード化した現代において「インタレスト」に抵抗するためのおたくには意義があるとします。両者の主張は対照的です。

見解

私の意見も少し述べておくと、オタク(おたく)三世代の話は「守・破・離」という三段階図式に似ていると思いました。いや本来は一人の人間がその過程を踏破するのが理想ですが。こういうあるものの普及による浸透・拡散・断片化の現象は、オタクに限らず普遍的に見られる構造ではないかと思います。ならば何らかの必然性があるでしょう。


もう一つ、「第3世代という最近の若いオタクは、岡田氏が教授を名乗って大阪芸大で教えているクリエーター志望者(大半がアニメ・マンガ分野の志望者)でさえ〜」とありますが、彼彼女らはクリエイター志望であって、別にオタク(おたく)志望ではないのでは? 漫画家になるのは漫画を読むより描く方が近道でしょう。


オタクはどちらかというと消費側のスタンスであって(それは岡田の『オタク学入門』でも書いてあったはず)、それがアニメ・マンガ分野であっても、芸大に行ってクリエイターになりたい人とは違うのでは。むしろ岡田氏(やガイナックス)の方が、需要から供給に回れる幸運な例外だったという見方もできるでしょう。

*1:おそらく東浩紀の『動物化するポストモダン』での三世代の定義とも重なっているのだと思いますが、今回は発言の場所も直接見ていないことだし微妙なんですが、(伝聞であっても)なるべく岡田の言葉を尊重したいと思います