希望は、教育。

若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か

「希望は、戦争」か

希望は、戦争。

 赤木氏は、一部の弱者だけが屈辱を味わうような平和なら、国民全員が苦しむことになる戦争のほうがいいと言う。赤木氏にとって、いまの平和とは、「持つ者」である年長世代が自分たちの既得権益をまもるために若者に不安定な雇用と貧困を強いて、それが固定化されている状態のことにほかならない。だから平和がつづくかぎり、現在フリーターの若者たちは一生貧困のなかで屈辱を味わいつづけなくてはならない。戦争は、そうした現状をひっくり返してくれるかもしれない「希望の光」なのだ、と。

 こうした赤木氏の主張に対して、応答文は、戦争が決してそんなものではないことを指摘する。戦争になったからといって、国民全員が平等に苦しむなんてことはありえない、と。アメリカを見ればわかるように、戦争になるとまっさきに犠牲を強いられるのは、まさに不安定な雇用や貧困を強いられている若者たちだ。平時に搾取される人間は、戦時においても――しばしばより苛酷なかたちで――搾取される。逆にいえば、平時に既得権や特権をもっている人間は、戦時においてもおいしい思いをするのだ。

赤木智弘氏の「希望は、戦争。」という主張自体に対しては、萱野稔人氏による批判の要約が適切なので、それ以上言うことはないだろう。戦争は希望をもたらさないのだ。だが、それくらい深刻なのだぞ、怒っているのだぞ、というレトリック*1だとしたら、レトリックを否定するだけでは、格差社会という問題自体の解決にはならない。ここでは、代案なき批判ではなく、何が希望をもたらすかということを考える。

希望は、教育

希望の光は、教育である。これは、戦争で一発逆転という発想とは正反対だ。また、雇用の流動性ではなく多様性を高めるのが目的だ。「流動性」と「多様性」はどう違うのか。流動性は非正規雇用などの流動的な変化、多様性は専門性の高い職への多様な分散、という意味で用いた。流動性を高めるより、多様性を高めた方が、雇用は安定するし、労働生産性が高まるはずだ。以前、日本の労働生産性が主要国では最低水準*2、という経済ニュースがあった。

だから、多様性を高めるための教育が必要なのである。これは、既存の教育制度を全否定するわけではない。確かに、高度経済成長の時代では上手く機能していた。しかし、高校進学率が九割以上、大学進学率が五割近くあるが、大学まで進学してフリーターやニートになるのでは「学歴の無駄遣い」ではないか。従って、詰め込みかゆとりか、といったことではなくて、多様性を産む教育が必要になる。縦の階層を横の多様性に変換する必要がある。

そして、多様性を高めるというのは、決して「個性」を伸ばす教育ではなく、「適性」を見つける教育なのである。個性は各自が勝手に見つければいいが、適性は機会を与えられないと分からないのである。子供はみんな可能性がある、全てが個性だ、では情報価値がない。そうではなくて、一人一人に何が向いているかを、専門の教育者が見なければいけないのだ。今まで入試偏差値という単一基準で計っていたのを、複数化しなければいけない。

アメリカンドリームの幻想

具体的なビジョンを明確化するために、まず人を不幸にするシステムを見てみよう。以前にも書いたが、「夢」「希望」「自己実現」をうたい、スターの成功物語で人を集める、アメリカンドリーム型の「クリエイティブ」な業界は、ごく一部の成功者を除いて、膨大な人材を使い捨てている。賃金が安く労働環境が悪くて人が辞めても、いくらでも替わりが利く。その人件費の安さによって業界は繁栄する。そうした現実を知っていても、後から後から人が集まるのは、終身雇用が崩壊したので、一か八か可能性に賭けてみようという発想があるのかもしれない。

それはちょうど、胴元が天引きするので賭博場は潰れないようなものだ。人間は、確率的な現象を正確に見積もるのが非常に苦手だ。自分が特別な存在で、自分だけが希少な当たりを引ける、という幻想が皆にある。そのヒューリスティックな認知のずれを利用して、ギャンブル産業が栄える。いやギャンブルは娯楽である限り構わない。芸能界など、ギャンブル的な業界が一部にあるのも構わない。だが、国民全員、猫も杓子もクリエイティブな人気職業に就けるというのは、端的にありえない。だからといって、同じくらい人気になった公務員になることも難しい*3

だが、実に多くの者が、単に搾取の構造を見出しただけで、立ち止まってしまう。ここではさらに先に進んで、問題を解決するには、どうすればいいのか。それは先に述べたように、多様性を産む専門教育へシフトすればいい。現在の教育システムを有体に言うと、学歴ブランドによる階級選別装置の機能が主になっている。しかし、産業が高度化・複雑化*4した現在、学歴という単一の物差しだけで振り分けるのは非効率だから、技能という複数の物差しにチェンジしていこう、という話だ。次にその詳細を見てみよう。

早期職業教育論

教育段階の初期で職業の適性を見ることで、後の就職時の混雑・混乱が避けられる。特に偽装請負のような形の非正規雇用では、技能が身につかないし、他の労働者と区別するものがないので、大量の労働力が安く買い叩かれてしまう。ごく単純化すると、新卒時に一回しかチャンスがない、というのが今の就業形態の問題点なのだ。そこで、後で何回もチャンスがあればよいのだが、企業の雇用慣習からいっても、前にチャンスを作る方が容易なのではないか、という発想だ。

だがこれには反論もあるだろう。一つ目は、早くから人材を選別することに、何か非人間的な違和感があるかもしれない。だが、今でも学歴を得るための受験競争*5は行われているし、選別を先送りしているだけではないか。市場競争がある以上、選別は不可避であり、学校卒業後に負担が集中するよりも、先に少しずつふるいにかけた方が、職に就く側も採る側も楽である。それに、非正規雇用に就いたりリストラされたときでも、専門技能があった方がまだしも何とかなるだろう。

二つ目は、あまりに早い職業教育は、潰しが利かなくなってしまうのではないか、という疑問だ。英才教育の失敗のようなイメージだ。しかし、これは公的教育だから、親の願望だけで決めずに、多くの適性を審査して複数の技能を平行して学ばせる。例えば、「運転」という技術一つ取っても、様々なタイプの職業があるだろう。それに、別に今の教育なら潰しが利くわけでは全くない。むしろ、大卒フリーターがどう潰しが利くのか、という疑問がある。

三つ目は、早期に職業教育する代わりに基本教科がおろそかになって、学力低下するのではないかという批判。しかし、小・中(・高・大・…)と9〜16年以上学習して、国語は活字離れしているし、数学は使う機会がないし、理科は理科離れしているし、英語は外国人と喋れない…という風に、そもそも実になっているのか疑問である。社会に出てから学校の勉強が役に立つ実感がないというのはよく聞く。

いやそれでも、社会人になってから、特定の分野を勉強したくなることがあるかもしれない。じっさい、社会人が大学で講義を聴くことはある。だがその例をもって、「若いうちに身に着けておけばよかった」「だから今勉強しておかなくてはならない」というロジックの教訓*6は誤謬なのである。なぜなら、社会に出てから何が役に立つか、事前には分からないからだ。それよりも、事後的に必要な分野を学び直せるシステムがあった方が実用的だろう。ネットのオンライン学習のように、低コストのものも含めて、多様化する必要がある。

日本全体の利益を考える

よく「若いときの苦労は買ってでもしろ」というが、苦労はしないで済むならしない方がいい。よく混同されるが、「苦労」と「努力」は全く違う。苦労は生産性を上げないが、努力は生産性を上げる。苦労は苦だが、努力は快である場合がある。なぜなら、苦労はその職業にとって非本質的なことだからだ。例えば、いじめを受けて苦労したからといって、技術が身につくだろうか。無駄な苦労は努力するのを妨げる。我慢して嫌々勉強したから、立派な人間になるわけではない。そして、述べてきた教育は、なるべく苦労の代わりに努力をさせようという発想なのである。

格差社会を肯定する者は、よく「努力」「実力」「競争」を強調するが、そこには欺瞞がある。非正規雇用では苦労ばかり多く、スキルを上げる努力をする機会がないし、頭数いくらで実力をつける機会もない。競争というが上に上がっていく機会があるわけでもない。本当は現場が変わればいいのだが、資本主義では難しいだろう。だから、「努力」「実力」「競争」を前倒しして教育の場で実現すればいい。もちろん、近代初期の児童労働のようなものであっては絶対にだめで、合理的で負担の少ない形にする必要がある。

そして、このことによって、多くの利益をもたらす。一つ目は、適性のある職に就くことで、働く側にメリットがある。もちろん、「スポーツ選手」「芸能人」「クリエイター」…などといった第一志望ではないだろうが、「なりたい職」になれる確率は低く、「なれる職」になった方が、実現性が高い。二つ目は、労働の成果・サービスを受ける側にメリットがある。適性が高いから労働の質も高くなるからだ。三つ目は、労働の質が高くなることで需要が創造され、第三者も経済的にメリットがある。例えばIT業界で言えば、多重下請けと人月単価とデスマーチの現場*7から、創造的なサービスが出てくるだろうか?

赤木智弘にひっぱたかれるか

これで、格差社会の構造的問題に対する一つの解は示した。だが、重大な欠点が一つある。それは、教育によって国を再生するには、絶対に時間が必要なことだ。かりに、新しい教育システムが成功するとしても、その結果が現れるのは、確実に十年二十年は先の話なのである。

すると、既に教育を受け終わり、かつ、格差の波を被った「失われた世代」は、どのようにして救われるのか。今の話だけでは、どうしようもない。ベーシックインカムによる再分配政策だとか、経済的な話に争点が移る*8。あくまで不遇な若年層を代表している赤木智弘にとっては、日本全体の未来の話を聞かされても、実に不満が残るだろう。

だが、たとえ迂遠なように見えても、戦争より教育の方がはるかにベターである。前の世代に受けた不利益と後の世代に受ける恩恵が釣り合わないと感じるとしても、日本全体が良くならなければ、雇用・福祉も改善しないからだ。それに、若い世代が専門的な職に就いてくれれば、これ以上非正規雇用の現場が混雑しない*9。これ以上悪くならない。どんなに苦しくても、常に最善策を考えるべきである。

はたして、赤木智弘にひっぱたかれてしまうだろうか。

*1:レトリックに戦争を持ち出すのは上品ではないが、「私を戦争に向かわせないでほしいと。」という締め方は、そういう意味かもしれない

*2:大雑把に、建設業などの多重下請けによって、直接生産に関係ないコストが水ぶくれしている

*3:構造改革」「小さな政府」で、公務員そのものをなくしていこうという流れもある

*4:第三次産業の割合が大きくなっているなど

*5:それも有名校の付属幼稚園に入れようだとか早期から

*6:教師が好んで用いる説教

*7:「日の丸検索エンジン」のような官製事業も

*8:もちろん、教育だけで何とかしようという話ではない

*9:逆に言うと、専門的な職への道が閉ざされてしまうことでもある。だが現状でも閉ざされているのだから、仕様がない