「戦闘美少女の精神分析」とツンデレ=ヒステリー論

議論の流れ

なぜ、フィクションの世界なのに、読者たちは♂の主人公に直接暴力(的妄想)を託すのではなく、そのカノジョたちに暴力を託すようになったのか?

現実世界における男子による暴力の封殺が、ほぼ完成の域にまで達したからではないか

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50878556.html

戦闘美少女とは、暴力を振るう存在であると同時に、暴力を振るわれる存在でもあるということだ。

http://d.hatena.ne.jp/orangestar/20070725/1185302690

オタクは戦闘美少女を通じて欲望する

まず、「戦闘美少女の精神分析」の著者である精神科医斎藤環の見解はこうだ。戦闘美少女とは、ヒステリーを想像的な媒介において鏡像的に反転した、外傷を欠いた存在(ファリックガール)であり、倒錯者であるオタクが、それを欲望の同一化の対象にする*1

だから、今の若年男性はアニメの美少女くらいにしか暴力性を見出せない、という話ではない。男性の暴力(権力一般)への欲望を、社会が押さえつけているから、アニメの美少女に暴れされることで欲求不満をガス抜きしている、戦後靴下と女は強くなったが男は情けない、といったことが話の要点ではない。

また、むしろ戦闘美少女の被暴力性に対して萌えているのだ、という話でもない。戦闘美少女が暴力の主体か対象か、の差異は問題にならない。どちらも暴力衝動の発露には変わりないのだから。戦闘美少女に萌える男のオタクはSかMか、というのが話の論点ではない*2

元々の「戦闘美少女の精神分析」は、そういう素朴な話をしていない。それでは何が問題かといえば、これは同書の内容を踏まえた上での私の意見なのだが、つまりこうだ。戦闘美少女を操り人形にしてオタクは欲求不満を解消している、といった話ではなくて、もっと根本的に欲望の座標軸が移動してしまっている。

すなわち、(萌え系)オタクは(戦闘)美少女を通じて欲望する。しかも、美少女という中継地点がないと欲望できない。更に、美少女がオタクの位置から欲望する、というところまで来ている。どういうことか。(以下作品のネタバレ含む)

ゼロの使い魔」の場合

それは「ゼロの使い魔」を見れば分かる。この作品は少なくとも二期アニメ化される人気は持っているのだが、物語中で剣を振るうのは男主人公の才人である。(主にルイズに)暴力を振るわれるのも男主人公である。(世界を広げたり押し戻すような)伝説の力を持っているのも男主人公である。だがそれにも関わらず、決定的な主体性の後退が見られる*3

それは、才人が剣を振るう動機は、ヒロインのルイズを通して欲望されているからだ。ルイズのために戦うという構図は、使い魔として召喚される最初からそうなのだが、才人がいったん現代の日本に帰るところで、より明確になる。才人は、ファンタジー的な異世界を広げたり押し戻したりしたいのではなくて、ルイズがいるから帰って戦うのである*4

つまり、才人とルイズは転移関係にあり、才人の位置からルイズが欲望するのである。逆ではない。だから、剣から盾に持ち替えた*5から男が弱くなった、というわけではない。剣を持っていても、それを振るうためには女に欲望してもらわないといけない、というところに、根本的な主体性の退行が見られるのである*6

本題からは少し脱線するが、ルイズは才人をよく鞭でしばく。しかしこれはSMプレイではない。SMは倒錯者間の関係だが、ルイズはツンデレ=ヒステリー気味である。ルイズはしばくことで快楽を得ているわけではない。ここが怪物王女と違う。

涼宮ハルヒの憂鬱」の場合

更にこの視点で、最初のリンクで言及されている「涼宮ハルヒの憂鬱」を見直すと興味深い。「ハルヒ」のヒロインのハルヒは、戦闘美少女とは言い難い*7が、ファリックガールではある*8。確かに、世界を広げたり押し戻すような力はハルヒが持っているのだが、それとは別のレベルで、やはり男主人公キョンは、欲望の座標軸がずれている*9

ハルヒは、みくるにセクハラしたりするのをはじめ、つまらない自主制作映画*10を撮ってみたりだとか、まあ青春的なバカなことをするのだが、本来なら男が、男主人公のキョンがやりたいようなことが、ハルヒによって欲望されている。キョンは皮肉を言いながらも、みくるへのセクハラを露骨に嬉しがっているだろう。そしてまたハルヒツンデレ=ヒステリー気味*11なところが一致している。

らき☆すた」の場合

だが本当に退行しているのは「らき☆すた」かもしれない。そこではもはや男が出てこない*12。ここでは女主人公は、物語内の人物ではなく、読者・視聴者のオタクの位置から欲望している。だからここが、同じ萌え四コマ系である「あずまんが」と「らき☆すた」の反転した裂け目なのである。あずまんがの榊は、男読者が榊の位置で欲望しており、だから可愛いものが好きだが素直になれない。対して、らき☆すたのこなたは、こなたが男読者の位置で欲望しており、そのため周囲に引かれる。

らき☆すたの女主人公こなたは、今まで挙げたヒロインと違い、ヒステリー的では全くない。むしろ倒錯的である。ヒステリー者は自分の欲望の対象、つまり、やろうとしていることが何だか分からないのだが、倒錯者は理解している。要するにオタクであるこなたは、オタク的なアニメやゲームの良さが分かっている(と思っている)。それでも、ツンデレ=ヒステリー気味のかがみに対して、理解してもらおうとしている。それは自分の欲望を他者の欲望にしたいからだ。

関連書籍

戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)

戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)

*1:この説明では分かりにくいと思うが、本書の要約は省く

*2:後で言うように、SMは倒錯者間の関係だ

*3:犬夜叉」も、女が主人公になっているが、似たような構造をしている

*4:しかし、才人の「悪」の欠落ぶりは興味深い。世界を左右する力を持っているのに、権力欲に対しては、全く惹かれない。女の子にしか興味がない

*5:だが「Fate/stay night」の男主人公がヒロインの「剣」に対して「鞘」の役割をするのは興味深い

*6:無能の主人とヒステリーの女という対に対して、ヒステリーの主人と有能な奴隷という形になっているのも興味深い

*7:ただし一応神人はいる

*8:時をかける少女」の女主人公マコトもそういうところがある。精神的外傷がない

*9:ここで「さよなら絶望先生」のOPテーマで、軸がぶれていると表現するのは面白い

*10:これには「世界を広げたり押し戻すような力」はない

*11:ハルヒは自分のやろうとしていることが分かっていない。SOS団はあくまで仮のものでしかない。ラノベの一巻最後でそれが分かる

*12:こなたの父や白石みのるなど、脇役にはいるが、主要登場人物にいない