Fateとひぐらしの意外な共通点
ツンデレ
TYPEMOON『Fate/stay night』と07th Expansion『ひぐらしのなく頃に』は、両方とも同人出身商業進出の作品なので、共通点があるだろうと考えました。それは何かと言うと、Fateもひぐらしも物語の原動力としてツンデレヒロインを搭載しているという点です。それも極端なツンデレで、本当に殺されそうになったりします。「これはひどい」と言わずに、まあもう少し読んでください。
学園異能
(フラットでポストモダンな)現代の学生生活の裏には、隠された真実(裏のセカイ)があった。ボクたちは、そのことを知らずに生きてきた。真実は、ボク(主人公、読者)(と異界からの使者=ヒロイン)だけが知っている。平穏な学校生活と、異界のタタカイに引き裂かれるボク。彼らのモノであったこの力を使い、ボクは戦う。
呼び名は「新伝奇」とかでもいいです。さて、上の記事では「(現代)学園異能」にFateも含まれていますから、拡大解釈すればひぐらしも同じ枠組みなのではないかと思えてくるわけです。伝統的ミステリという形式は放棄したようなものだし。要するに日常の裏に非日常(オヤシロ云々)があるわけでしょう。レナがサトリのように見透かしてくる場面では、読者を震え上がらせるから、変なビームとか飛ばさなくても、十分に異能だと思うわけです。これならツンデレよりはましな括りに見えます。でももう少し続けましょう。
セカイ系
過剰な自意識を持った主人公が(それ故)自意識の範疇だけが世界(セカイ)であると認識・行動する(主にアニメやコミックの)一連の作品群のカテゴリ総称。
(中略)[きみとぼく←→社会←→世界]という3段階のうち、「社会」をすっ飛ばして「きみとぼく」と「世界」のあり方が直結してしまうような作品を指すという定義もあるようだ。
ブギーポップシリーズ*1は、学園異能だけではなく、というかむしろ、セカイ系に分類されるでしょう。ここでセカイ系と学園異能の構造が共通するように見えるんですがどうでしょうか。
学園異能 使者とボク←→(学園)←→裏世界
セカイ系 きみとぼく←→(社会)←→セカイ
能力として具現化するか自意識に潜在したままかの違いだけで、構造としては同じように思えてきます。もちろん自意識が異能になるというモチーフ(トラウマとか)も多いです。*2つまりセカイ系で社会が後景に退くように、学園異能での学園(勉強とか本来の意味での)は後景に退きます。それは端的にはエヴァの街が人気が無かったり、タイガー先生が浮いたりするようなことに現れています。ここで更にひねりを加えてみましょう。先のツンデレです。
ツンデレ再び
学園異能 使者とボク←→(学園)←→裏世界
セカイ系 きみとぼく←→(社会)←→セカイ
ツンデレ デレデレ←→(ヒロイン)←→ツンツン*3
ツンデレとは、影の薄くなったライバルがヒロインに吸収合併された形だということを、以前言いました。異能ものでは異界の使者とか、セカイ系では世界の果てで愛を叫んだり恋を歌ったりする少女とか、主人公が自分を投影した影になっています。そしてヒロインとのディレンマが起こりやすく(異能を巡る駆け引きとかセカイを巡る自意識とかで)、三つの形式の相性は良いと言えます。そしてこれはISR分析の形に持ち込めます。
ISR分析
ISR | イメージ | シンボル | リアル |
---|---|---|---|
三形式 | ツンデレ | セカイ系 | 学園異能 |
このようにこの三つはバリエーションをなしています。イメージ指向ならヒロインのツンとデレの落差に注目しますし、シンボル指向ならヒロイン等との言葉のやりとりとか意識の違いみたいなものに注目しますし、リアル指向なら登場人物の生死を直接左右するような能力に注目します。これらは一つの構図の異なる側面です。
二層構造とキャラ
三つとも二層構造になっています。この説明はデータベース図式でもいいんですが、ツンデレのディレンマでやったシミュレーション図式を取り上げます。「ファウスト」に掲載された福嶋亮大の「小説の環境」で言うところの「限定状況」ですね。世界が複雑になって簡単な物語では描ききれなくなってきて、しかし限定した状況なら描写が可能だと。そこで異能なりセカイなりツンデレなりが出てきます。限定ジャンケンからバトルロワイヤルまで同じ図式です。
この二層構造は、モデルとシミュレーションの関係や、モデルとビューみたいな関係になってます。あるいはXHTML+CSSでブラウザの実際の見栄えが制御されているとか。そこからキャラ(XML)が先行して登場人物が生成するようなシステムの話に繋がっていきます。ここら辺はこのブログで以前書いた記事のまとめになっています。
成長=コミュニケーション
無機質な構造だけじゃなくて、なんでこういう類型が流行るのかという、もっと実感のこもった説明を最後に試みましょう。いまはてなでも空気論とか流行ってる空気ですが、コミュニケーション力が過剰に求められているわけです。具体的には例えば現実の学園でもスクールカーストとか、そういう格差的な状況が後押ししています。
確かにFateは基本的には能力で戦いますが、JOJOの自由に操れるスタンドと違うのは、能力(を具現化した)者とコミュニケーションする余地があることです。これはジャンプ的世界観では些細な違いかもしれませんが、ヒロインの存在が大きいジャンルではかなり効いて来るわけです。能力や戦闘自体はそれほど画期的ではないですが、そこに重心を置くところが新しい。*4
そして、Fateとひぐらしは共に、コミュニケーションに対する失敗が凄く高くつくシステムになっています。*5両方とも主人公は空気読めてないばっかりに、死にそう(or死ぬ)になります。今まで述べてきた三形式は、コミュニケーションに対する希望と不安を誇張して表現したものです。(他者が異者になる、自意識が世界になる、ツンツンがデレデレになる)
これは二作品に限らないのですが、「成長」(ビルドゥングス)という意味の変化が興味深いです。正義(等の大きな物語)に目覚めて云々というよりも、むしろそれを相対化して個々人の小さな物語を理解できるようになること、つまり成長=コミュニケーションに、言葉の意味が密かに変わってきています。*6だから「KANON」の川澄舞は、泣きゲにおけるあしたのジョーなのです。