『思想地図』「キャラクターが、見ている。――アニメ表現論序説」

概要

NHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日本

おそらく私たちは、萌えアニメを中心とするキャラクターアニメのなかで、キャラクターと逆遠近法的な関係を結んでいる。


美術家・黒瀬陽平氏が寄せた、『思想地図vol.1』の公募論文「キャラクターが、見ている。――アニメ表現論序説」について考察する。

黒瀬氏は、日本アニメに関する言説が、物語論に偏在しており、表現論が不在だと主張する。そこで表現論によって、ポスト・エヴァ萌えアニメの系譜を捉え直そうと試みる。

そして、カメラアイが構成する「遠近法的空間」と、キャラクターが構成する「データベース的空間」という図式を提示する。

アニメの視聴者は、キャラクターと「逆遠近法的」関係を結ぶのだという。それは、アニメのキャラクターに「目を合わせる」ことができず、一方的に見られている、ということだ。

少し疑問を提起したい。

疑問1・遠近法を使うとデータベース空間が損なわれるか

論文中、アニメ版「あずまんが大王」は、カメラアイによる遠近法的空間が採用されているため、原作のマンガのようなデータベース的空間が成立しないために、失敗作であり、一方「ぱにぽにだっしゅ!」は成功作だとされている。単純化すると下のようになる。

だがこの図式には違和感を覚える。たとえば、「アイドルマスター」はゲーム*1なので、コンピュータパースによる正確な遠近法の空間が描かれる*2が、「ニコニコ動画」などでのMADの流行は、データベース消費的ではないだろうか。

疑問2・キャラクターから見られている感覚があるか

そして、キャラクターを一方的に見ている、という感覚が普通ではないだろうか。瞳が大きいから目が合わないということはなく、目が合うシーンは存在するだろう。しかし、目が合っていても、キャラクターに見られていると普通は感じない。これは、マジックミラーの向こうから見られていても相手は気づいていないだろう、という感覚と似ているかもしれない。

  • キャラクターと目が合わない→にも関わらず見られている(論文)
  • キャラクターと目が合う→にも関わらず見られていない(私の立場)

ただし、この二つは必ずしも両立不可能ではない。目が合わなくても見られている感覚が、生じることもあるだろうとは思う。しかし、基本的に視聴者は見る立場に置かれていると考える。なぜなら、「見下す」「見返す」というように、見られる立場は権力関係として弱いことが多いからだ。一方的な好意としての萌えが成立するのも、二次元・虚構のキャラクターから見返されることがないという点が挙げられるだろう。

結論

  • 画面上の遠近法と抽象的なデータベースは別
  • 物理的な視線と抽象的なまなざしは別

論文は、上のような二つのレベルを短絡的に混同しているところがあるのではないか。ただ困ったことに、実は私もオブジェクトとメタを混同させるような方向で考えているところがある。やはり普通はキャラクターを見ていると感じ、それを反転させるところに新しさがあるわけで、刺激的な考察ではある。

*1:アニメではないが、アニメや映画と同じ動画ではある

*2:ただしトゥーンレンダリングは平面的ではある