『思想地図』「II ニッポンのイマーゴポリティクス」

概要

NHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日本


NHKブックス別館から新創刊された『思想地図』。今回は「II ニッポンのイマーゴポリティクス」と題された、国際化した日本のサブカルチャーについての諸考察を取り上げよう。

伊藤剛「マンガのグローバリゼーション――日本マンガ『浸透』後の世界」

「マンガのおばけ」

――大塚の「否認」の対象を、「キャラ図像が身体を表象していなくとも、そこに身体があるかのように錯覚できる程度には強い存在感を感じさせ、感情移入を誘うこと」であると確定できるだろう。

伊藤剛氏によると、日本マンガの近代的表現は、「キャラ」「コマ構造」「言葉」の三要素で構成される。だから、キャラのリアリティを隠蔽(省略)しても、残り二つの要素でリアリティを生成できる。キャラの隠蔽で生まれたクィアな官能性は、日本でも海外でも少年少女を父権性から解放した。このことを大塚英志氏は否認している、というのが批判だ。

「ノベルのおばけ」

上の三要素は、小説で言えば「人物」「文体」「物語」の三要素に相当するだろう。しかも、大塚は自ら実作者として、ライトノベル(「キャラクター小説」)に関わっている。だから、並列してラノベにおいても、キャラの隠蔽・省略(人物の描写はライトに留め、イラストが代わりに表象する)による、「クィアな官能性」が見出されるのではないか、と考える。

そしてまた、これは「イメージ」と「シンボル」の分割の話とも対応する。ライトノベルにおいては、イラストとテキストが両方用いられている。これによって、キャラ像を曖昧な領域、あるいは近代的・父権的な去勢・成熟から逃れた場所に、位置付けることが可能になるのではないか。

増田聡「データベース、パクリ、初音ミク

「身体なき声」

――「初音ミク」の爆発的なブームが示唆するのは、少なくとも日本においては、「身体なき声」という音楽素材は、拡散した主体による創作労力の積分として想像されることなく、キャラクター志向的な想像力の水路に従いつつ、それが虚構であれなにがしかの「主体」へと容易に帰属させられてしまう文脈が根強く存在する事実である。

増田聡氏は、「初音ミク」を巡って、「創作労力の節減」をもたらす「音楽制作者のための電子楽器」と、「他者のパブリシティの利用」ができる「二次創作環境のためのソフトウェア」という二つの視点に反映される。後者のキャラクター的なミクの受容が優勢になった背景に、声を主体に結びつける想像力の構造を、指摘した。

「幻声的キャラクター」

これに対し少し別の角度から、私の考えを述べよう。「幻声」という概念を、身体と声の解離に対して与えよう。特定の発話者に帰属しない声、幻声は、主体の幻聴と対応する。この浮遊する声が身体に憑依するとき、声が主観化・非幻聴化する。どういうことか。

以前にも触れたが、映画やテレビのナレーションや交通機関の音声案内など、声だけが聞こえる場面がある。そこでは顔が見えないことで、公的な存在が発話しているように受け取ってしまう。もしナレーターのアフレコ現場を見てしまうと、非幻聴化、つまり単なる個人の声に成り下がってしまうだろう。匿名の犯罪者では、この落差が劇的に現れる。

初音ミクを「幻声的キャラクター」として捉えたい。声優の声は身体的な不透明性を持っているが、ミクは人工合成によって透明になる。そしてここでも、リアリティの隠蔽で「クィアな官能性」が生じると解釈できないだろうか。

福嶋亮大「物語の見る夢――華文世界の文化資本

「ヴァーチャルな作者」

――物語を利用してそこに≪作者的なもの≫、つまり、読者の視点や意見を織り込んだ新版の、しかも一定の耐久性を備えた≪私≫を構成すること、それこそが台湾のウェブ小説で見込まれた、ひとつの有力な文化的計算なのである。

福嶋亮大氏は、日本(大陸)と台湾ではウェブ小説の環境が異なり、日本のキャラクターに紐付けされる二次創作と比較して、台湾では作者とファンのコミュニケーションが重視される。作者が物語を立ち上げるというよりも、むしろ物語が作者を立ち上げるという側面が台湾では大きい、と指摘する。

「ヴァーチャルな読者」

本文中、『電車男』のようなコンテンツは、偶然的な物語生成であって、上で言われた仮想的な作者の立ち上げとは、全く別だと見られている。しかし、別の捉え方はできないか。日本のウェブ環境では、読者が物語を読み込むというよりも、むしろ物語が読者を読み込むという側面があると考える。『電車男』には≪読者的なもの≫が織り込まれていないだろうか。

ニコニコ動画」では、コメントという形で視聴者が参加する。「弾幕職人」と呼ばれるように、一定以上洗練された形式のコメントは、コンテンツの一部を形成するだろう。さらに、ニコニコではコメントを付けやすい動画ほど、多く見られる傾向がある。これは、物語を利用して読者を立ち上げていないだろうか。

感想

「幽霊の声」

さて、ここまで見てきた三者の記述は、一つの方向を指し示していると、私には思える。すなわち、「マンガのおばけ」「身体なき声」「ヴァーチャルな作者」というのは、データベース化した絵・音・文の環境における、幽霊的な主体性の回帰ではないだろうか。

「固有名が確定記述に還元されないように、キャラクターはデータベースに還元されない」とか、「キャラとキャラクターの二層構造で、キャラの方はデータベースに還元されるが、キャラクターは幽霊性があり、『半透明』」といった図式を、私は以前から構想している。

初音ミクにおいては、たしかに単に要素を掛け合わせたようなイラストも見られるが、猫耳やメイドといった萌え要素なしに十分流通しているオリジナル曲もまたある。後者では半透明なキャラクターが仮想的に立ち上がっているだろう。

したがって、データベースの要素を単に組み合わせるだけでは飽きたらず、そこに還元されない半透明な固有性、すなわち幽霊的なキャラクター性を追いかける、という消費が観察できるのではないかと、私は考えている。