アニメ「true tears」1話の、「ティッシュ箱のニワトリ」に隠された深い意味

true tears vol.1 [DVD]

「私…涙、あげちゃったから」

概要

新・アニメ・批評 『true tears』━「よく出来ている」とは思うけど「いまいちわからない」、その理由。

(…)しかし、そのような高い評価を下しながらも、「いまいちわからない」という旨の言葉も多くの方が付け加えておられます。実はですね、それについてはわたしも同感しているのです。

結論から言うと、『true tears』(TT)は、とても面白い。『シゴフミ』の緻密な構成、『俗・絶望先生』の俗受け要素など、他にも魅力的なアニメが色々あるのだが、現段階ではTTが今期一番面白いと感じた。よく出来ていると思うし、よく分かる。

TTは後でふと見返したくなる、じわじわ来る地味な面白さがある。もちろん、それがセールスにつながるかは分からないが…。そのようなTTに対し、「分かりにくいのは、まだ話が動いていないからだ」、また、「分かりにくいなら、それは失敗ではないか」、という意見がありそうだが、私はどちらの見解にも与しない。

第一話にして、すでに話は動き出している。だがそれが、意識の水面下で動くために、必然的に分かりにくい。これを分かりやすくしてしまうと、面白さも雲散霧消してしまう。いったい、どういうことか。それは、最後まで読めば明らかになる。

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true tears」は、なぜ分かりにくいのか

 (…)この作品が私小説的でありながら、眞一郎くん自身も「静謐」なために、全ての登場人物が「他者」的なものとして表象されているということです。

引用先を適当に要約すると、TTは、映像的にも音声的にも「静謐」な作品であり、内面が公開されない「他者」である登場人物たちに感情移入しにくく、結果的に分かりにくいというのだ。これは、的確な分析だろう。

TTはギャルゲー構造なので、メインヒロインに好意を寄せられ寄せて思い悩むという、大枠はよく分かる。しかし、主人公の行動の動機がパッと見では分かりにくい。TT(1話)は、ぼうっと見ていると、その場の登場人物の思いつきによって、アドホックに展開しているように思えてしまう。

例えば後半、眞一郎が作る「ティッシュ箱のニワトリ」が、かなり唐突で奇異なギミックに見えるかもしれない。だいたい、そのような物を作る時点で発想が珍しいし、普通の女の子は贈られて喜ぶわけがない。だが、物語では贈って、喜ばれている。なぜか?

例えば、「乃絵は鶏が好きだから」というような解釈は、凡庸で不適切でつまらない解釈である。だいたい本編中、同じ鶏でも「地べた」には見向きもしなかったではないか。「乃絵はセンスがぶっ飛んでいるから」といった解釈もつまらない。しかしでは、どういうことなのか?

ティッシュ箱のニワトリ」に隠された深い意味

なぜ眞一郎は「ティッシュ箱のニワトリ」を作り、なぜ乃絵はそれを喜んで受け取るのか?

それでは、この問いに回答を出す。結論から言うと、TT一話で最も重要なモチーフはニワトリで、ティッシュ箱のニワトリもその線に沿っている。だがなぜそう言えるのか。物語の時系列に沿って、手順を踏んで見ていこう。

まず、冒頭で眞一郎が想像する赤い目のイメージは、後で出てくる赤い実とメタファーの関係にある。この赤い目は涙を流しており、TTのタイトルにある、「涙」のテーマに結びつく。だから、ニワトリのモチーフは、意外なことに涙と関係がある。

眞一郎との初対面時に、乃絵は木に登っていた。彼女が木に登るのは、赤い実*2を取るためだ。最初の飛び降り時に、赤い実が散らばっていた。乃絵と一緒に鶏小屋に行くと、その赤い実は、鶏の「雷轟丸」のエサにする「天空の食事」なのだという。

乃絵は、眞一郎を「飛ぼうとしないニワトリ」と同一視する。ここで、ニワトリという選択になんともいえない妙味がある。もしこれが「傷ついて飛べない小鳥」というモチーフなら、ありふれているので、視聴者もすぐに物語上の意味を理解するだろう。

ニワトリは飛べない鳥*3なので、飛ぼうとしてもムダなように思えるが、飛ぼうとすること自体に意義があり、また、後に、死ぬことによって「(天に)飛んだ」という解釈がなされる。これは、直接の死ではないだろうが、誰かの失恋を暗示しているかもしれない。

そして、乃絵は眞一郎に「不幸が訪れますように」という「呪い」を掛ける。ティッシュ箱のニワトリの贈り物を彼女にする直接の動機は、この「呪い」を取り消してもらうためだ。「呪い」をまともに取り合わなければどうか。

しかし、Aパート最後のアイキャッチ部分など、眞一郎が呪いの言葉を反復してつぶやくシーンが何箇所かある。三代吉が「石動乃絵・必殺奥義・悲劇を呼ぶおまじない」と解説し、愛子の「ため息つくと不幸になるぞ」に、「あいちゃんまで人を呪うつもりかよ」と返すように、呪いをずっと引きずっている。

眞一郎は、脱衣場で下着姿の比呂美に出くわす。これが、ティッシュ箱でニワトリを作るという奇想につながる。簡単に言うと、彼はティッシュを使う代わりに、箱を工作してニワトリを作ったのだ。机にうつ伏せになっているときに、比呂美の入浴シーンがかぶさるが、これは眞一郎の想像、あるいは並行した視点だと取りたい。

しかも翌日、比呂美たちと朝食を取る場面で、彼女の服が一瞬だけ透けて見える。これは眞一郎の(想像)視線と解釈するのが妥当だ。なぜなら、視点の位置からして、父の視線ではありえず、座る前の眞一郎になる。また、服が透けるのは、撮影ミス的なことではなく、演出意図と見なして構わない。なぜなら、「しまぱん」の横縞が微かに見えているのだから。これが前の読み(入浴の想像)を補強する。

だから、比呂美に対して、性欲の対象にするのではなく、家の中で肩身が狭い彼女の立場を理解しようという、思いを具現化している。これには、ティッシュ箱の見た目が奇妙なので違和感があるだろうが、要するに、鶏小屋で飼われている不自由な鶏に見立てられる。

また、それは眞一郎自身にも当てはまる。それは、絵本作家になりたいがなれない、という状況に当てはまるだろう。直接的には、乃絵に飛べない鶏と同一視されたからだが、出版社に送る絵本の原稿も、ティッシュも白い紙の束だという類似点はある。

ティッシュ箱のニワトリ」を見た乃絵は、「あなた、飛べるんじゃない?」と眞一郎に言う。そして、涙をあげてしまったという彼女の代わりに、涙を集める役割を求めるのだ。鶏(飛べない鳥)のモチーフを経由して、涙のテーマにつながった。

1話は最初から最後まで鶏関連でつながっているので、ティッシュ箱という点は珍奇だが、ニワトリを出すこと自体は、自然な流れなのである。唐突に見えるとしたら、サラッと流して見たからだろう。さて、あらためて、この節の最初の問いに答えを出そう。

ティッシュ箱のニワトリ」は、眞一郎の「飛ぼうとする意志」をあらわしている。

true tears」の、分かりにくい面白さ

視聴者は登場人物たち、あるいは『true tears』の世界への自己投影による登場人物たちの精神構造を無意識的に読解しようとする精神分析的な機能が停止してしまい、「彼女がわからない」、「彼がわからない」、つまり「彼/女らは他者である」と感じてしまって、無意識的なレヴェルで突き放されてしまうのです。

ここで、引用元と意見の違いが明確になる。私は、登場人物が「他者」であるからこそ、無意識レベルでの精神分析的な読解の余地があり、それが(地味ではあるが)ストーリーの面白さになっていると考える。

精神分析的な読解」というのは、例えば、『NHKへようこそ』などでも言及するような、「蛇は男性器の象徴」だとか、そういう通俗的なものを指しているわけではない。

前節で解説したティッシュ箱など鶏関係のモチーフは、眞一郎と乃絵の間の象徴交換になっている。「象徴」というのは、目に見えないコトとコトの関係を、目に見えるモノとモノの関係に置換している、ということだ。特に小説と違ってアニメは、抽象的なことを説明ゼリフで言っても面白くないので、モノとして描くことに大きな意味がある。

具体的に言うと、「ティッシュ箱のニワトリ」は、眞一郎にとっては、出版社に原稿を送る代わりに、乃絵に工作を認められたのであり、乃絵にとっては、死んだ雷轟丸の代わり(しかも、後で予告で述べられるように、眞一郎自体が代わりになる)になる。

もちろん、時系列で見ると、「ティッシュ箱のニワトリ」が作られた後で、出版社の不採用通知が来て、雷轟丸が行方不明になっていることが分かる。だから、リアリズムから見れば、ありふれた出来事(原稿の落選・鶏を狸が襲う)が、偶然重なっただけだ。

しかし、精神的な側面から見れば、両者の大事な物(原稿・鶏)の代理・表象物になっている。これが結果的にそうなったというのも大事で、雷轟丸が消えた後にいかにも代わりのように差し出しても、ありがたみが薄れるだろう。時間の前後によって、出来事が成立しているのだ。

補足もしておく。まず、そのような流れは回りくどい。例えば、眞一郎が自分の状況を「実は、かくかくしかじか〜(暗転)」と語り、乃絵が叱咤激励して友達になる、といった方がはるかに分かりやすいだろう。だが底が浅い。

また、「ティッシュ箱」ではあまりにも下らない、という素朴な意見もありうる。それはそうなのだが、逆に見れば、第三者にとっての社会的価値がないからこそ、記念的な価値が純粋に見出せるとも言える。まあ、過去に制作した絵本を送る、とかなら違和感は大分減るだろうが、それだとキャラに合わない。「電波の皮をかぶった純粋さ」を示す方が現代的だ。

そして、別にそのようなことを眞一郎が考えているわけでもないだろう。乃絵は勘が鋭いので直感的に分かる面があるが、彼はなんとなくやっただけだろう。だが、知らずに行っているからこそ価値があるとも言える。笑顔が営業スマイルだと判明したらつまらない。

とはいえ、乃絵が絵本のイメージと似ているので、最初から代理的な立場にいる彼女に対し、少し意識はしていただろう。そして、二回目の木からの飛び降りで、「バッチコイ!」と言うように、巻き込まれた形とはいえ、より関係にコミットする構えが見られる。複雑な迂回路なしで分かりやすくしてしまうと、この変化の複雑さそのものが失われてしまう。

さらに言えば、このような読みをした視聴者は少数だろう*4。今まで述べた解釈は、一つの解釈に過ぎない。また別の解釈がありうるだろう。しかし、だからといって、全てが無に帰すのではなくて、そのような解釈を立てられる程度には、複雑さ・奥の深さがある、とは言ってもいいのではないか。

結論

もちろん、作画・演出・美術・音楽…といった様々な要素の絡み合いで、今回は物語の一側面を切り出したということだが、単に想像の余地がある、という以上に、意識の水面下での心理の動きを見出すことはできる。ただやはり、「踊りOP」など流行する要素に比べると、かなり地味ではあるだろう。

表層的には何でもないようなシーンでも、その深層では他者に対する心理的運動を読み込むことができる。それは例えば「贈与」や「代理」といった行為・関係に現れる。だから、1話にして関係性が示されている*5し、すでに話は動き始めている。それに、そもそもTTは、涙を贈与するところから幕を開けているのだ。

「私…涙、あげちゃったから」

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*1:ちなみに、記事の日付がずれているので、これを書いた時点で筆者は、第三話まで視聴済

*2:グミの実か

*3:エヴァのペンギン「ペンペン」もそうだが

*4:制作者の意図とも違っているかもしれない

*5:例えば、愛子が眞一郎を熱いまなざしで見つめるなど、関係性を示唆する場面が色々ある