萌え絵の条件
萌え絵の記号性
「この絵ってオタクっぽいよね?」と言われちゃう線引きって? - たまごまごごはん
「それの対象年齢がどこに設定されているか」「どんな層が好むように出来ているか」
「自分独自の、好みの萌えの切り取りラインを探す」のか、「萌えという共通言語を基盤としている」か
整理すると、オタク絵はオタクの共同体で流通していること、萌え絵は萌えの共通言語を基盤としていること(個人の好みの切り取りもある)、が線引きの基準(引用元では私的だと断っているが)でしょうか。
「萌えの記号」「最大公約数的な女の子記号」という表現もあるように、更に一言で言えば、「記号的」という辺りでしょうか。オタク絵(マンガ絵・アニメ絵)が記号的である、というのは、ごくありふれた認識ではあります。
記号的である、というのはまあそうでしょう。そこから、無個性であるという批判もしばしば見かけます。しかしここでは、別のことが言いたくて、それは、記号的でありながら、身体性も備えている、という両面性です。
記号性と身体性
記号的かつ身体的というのは、記号が有機的に組織化されているという意味です。有機的な組織化というのは、ここでは記号と意味が1対1対応ではないという意味です。記号的といっても、モールス信号のような機械的にエンコード・デコードできるものではなくて、解釈の幅があります。
文学なら比喩、美術なら色彩、音楽なら調性、これらはある種の記号的対応関係があります。暗い色は暗い、マイナーコードは暗い、というのはあるけれども、しかしそれは機械的な対応関係ではありません。そして、その曖昧性から、有機性が生まれる。
ただこれでは表現一般に言えるので対象を更に絞り込むと、萌え絵はさしあたりは美少女についての記号化と身体化を行います。まず、瞳が大きいだとか、白目・黒目の境界が消失して一様にベタ塗りされている場合は、何物かに意識を操られていたりして主体性がない状態を表しているとか、記号性はあります。
しかしまた、同じ意味(先のベタ塗りの操られ眼とか)でも、多種多様な表現がありえます。これは、同じ文字にも多様な書体がある、同じ楽譜でも多様な演奏がありうる、ということと同じで、パターンと個性は両立不可能なわけではありません。
パターンを踏まえて組合せで個性を出す、という話もどこかで聞いたことがあるでしょう。ここでは更にもう一歩踏み出したいと思います。それは、意味を生成する、あるいは文脈を生成する、という話です。
意味の生成
例えば極端な例ですが、断面図の表現というものが普及してきますと、虚構でしか見る機会がありませんから、最初はギャグにしか思えなかったのが、繰り返し見ているとだんだん、ある種の情感を印象付けられるようになります。
それは意味の生成でもあります。例えば「トカトントン」という感覚が誰かにあったとして、「今トカトントンなんだよ」と言ったとしても、意味不明です。言葉は人に伝えるものなので、人に通じない私的言語は意味をなしません。
しかし、様々な文脈で繰り返している内に、「あ、今トカトントンでしょ」と、意味の共有に成功する場合があります(失敗することもあります)。たとえ二人でも共有に成功すれば、公的言語です。そして、そもそも人が言葉を覚えるのも、基本的にトライアンドエラーで覚えていくわけです。
現代の先端にある萌えは、いかにも「最大公約数的な女の子記号」ではなくて、「ヤンデレ」のように、共有のハードルが少し高いものです。意味を生成して普及させるのに成功した絵は二次創作で模倣されますし、もちろん失敗するものもたくさんあります。
だから、最初の引用に戻ると、「自分独自の、好みの萌えの切り取りラインを探す」のか、「萌えという共通言語を基盤としている」か、という風にどちらかではなくて、私的言語と共通言語の両極の中間領域に、位置しているように思われるのです。