涼宮ハルヒとドン・キホーテ型主人公

伝統的コンビへの先祖がえり

ハルヒキョンの関係は、セルバンテスの『ドン・キホーテ』の主人公ドン・キホーテと従者サンチョの変奏として、位置づけられるだろう。


人格的に問題がある主人に従者が振り回されるというコンビは、涼宮ハルヒに限らずオーフェンとマジクなどでもいいが、よくあるパターンではある。しかし『ドン・キホーテ』は小説自体の源流なのだから、ライトノベルにそのような人物造形があってもおかしくはない。


風車に突撃するという有名なエピソードをはじめとして、現実と虚構の境界が曖昧になっているだとか、よくあるオタク批判をはるか昔に先取りしているところが興味深い。むしろ、現在の批判の方が無意識のうちにそれに影響されているのかもしれない。また、劇中劇などメタフィクションの要素もとうの昔に取り入れているのだ。

小説における主従関係の系譜

だがそれでは、『NHKにようこそ!』や『KANON』の川澄舞はどうなのかというと、別の流れに属している。パロディというよりはミステリ(陰謀論)の枠組みが近いからだ。そのことを分かりやすくするために、まず『シャーロック・ホームズ』を見てみよう。このホームズとワトソンの関係も、ドン・キホーテとサンチョの変奏(反転)に他ならない。*1


ドン・キホーテの場合には妄想であることが明らかなのだが、殺人事件という非常事態と名探偵という特殊な立場によって、ホームズの場合には理解できない事を言っても単なる妄想とは取られないのである。この天才の探偵と平凡な助手という組合せも非常に多い。(下図)

コンビ
パロディ キホーテ(妄想) サンチョ(凡庸)
ミステリ ホームズ(天才) ワトソン(凡庸)

妄想からセカイに至る道のり

そして、ハードボイルド探偵まで来ると、ついに主従の関係も怪しくなってくる。というのは、主人公の探偵は宿命の女(が体現している陰謀論的ゲーム)にいいように操られ、主体的に行動しているつもりが状況を悪くする一方になる。これは先の作品やひぐらしやその他セカイ系主人公にまで広く適用できるだろう。


この三段階の主人公の変遷*2は、三人称視点(神の視点)から一人称視点(人間の視点)への変化*3や、そうした超越的な視点を想定できない歴史的状況の変化*4と関係がある。つまり、読者が見渡せる視界がだんだん狭くなっていき、逆に妄想的な虚構は外在化し拡散するようになってくる。セカイ系主人公などはその末裔であろう。


もともと『ドン・キホーテ』は騎士道物語のパロディである。*5だからハルヒも、セカイ系のパロディとしての(アンチ)ヒロインなのかもしれない。ひぐらしのヒロインが異常に空気・思考を読むのと対照的で、彼女は大層DQNである。それに川澄舞のような悲壮さもない。では何があるかというと、トラウマとは逆の全能感である。それがコミュニケーションにおけるロリとしてのツンデレと回路をなすので、萌えを形成するのである。

*1:ただしジジェクによると、ホームズとワトソンの関係は単なる対比ではないという

*2:今は触れないが、このブログでのISR分析で言うところの、I→S・S→R・R→Iの循環をなしている

*3:正確には一人称・三人称と一元描写・多元描写は別の問題である

*4:大きな物語で云々、ポストモダンで云々、やはり今は触れない

*5:ドン・キホーテ』のパロディ性を取り上げた論点に、大江健三郎のものがある。