涼宮ハルヒの反論II

涼宮ハルヒの憂鬱 - 善良な市民×成馬01×キクチ
萌え理論Blog - 涼宮ハルヒの反論(参考)

これってあれだよね

 で、これって要するに「不思議ちゃんの彼女が欲しい」って話ですよね。
 この作品の本質はメタ構造でもなければSF設定(世界改変能力云々)でもない、(恋愛を含む)「こんな青春がしたい」妄想の屈折した表現ですよ。(善良な市民)

 基本的にイベントの言い出しっぺはハルヒで、キョンは止めに入るじゃないですか。んで、古泉に「神人を暴れさせないため」とか言われて、しぶしぶ参加する。このパターンがね。お前は「世界の危機」レベルの理由がないと、女の子と遊びにいくこともできんのかと(笑)(キクチ)

でも『ハルヒ』を喜んでる人って「青春にアクセスできない自分を直視したくない」かと言って「素直にアクセスしたい」って言えない人が、言い訳に言い訳を重ねてアクセスしてる作品なんですよね。 (narima01)


流れを簡単にまとめると、「こんな青春がしたい」という妄想を持った対談者たちが、萌えオタと自分を差別化する理由がないと、ラノベやアニメを見ることもできんのかという、言い訳に言い訳を重ねてハルヒにアクセスしてる対談だろう。要するに過去の○○や××と同じ△△に過ぎないし、自分はとっくにそれを乗り越えたけど、プライドの高いオタクは騙されていて、でも上手く騙してヒットさせたのは評価してあげよう、終わり、というよくある「AはBに過ぎない」論だ。これは便利な一方、けち臭い。


ではそうした側面は全くないのかといえば、確かにあるだろう。しかし、ここでは「これってあれだよね」的に作品をネタに自分語りしてみたり他人と差別化してみたりするより、徹底的に作品に内在的な視点から論じる。つまり、だれがいつどんなときにでも使えるリーズナブルな(お安い)一般論ではない。ハルヒが贅沢な作品なのだから、批評の方も贅沢なものにしたい。それではまず、「酸っぱい葡萄」の通俗的解釈に揺さぶりを掛けるところから始めよう。

狐と葡萄

本当は彼女も(そしてキョンも)普通に「青春したい」はずなのだ。でも、人間関係を構築する力がない(性格ブスで友達がいない)ハルヒは、無駄にプライドが高くてそれを認めたくない。だからイソップ童話の「すっぱい葡萄」状態になった「こんな日常はつまらないので、自分は非日常的なロマンが欲しい」のだと無理矢理自分に言い聞かせているのだ。
 断言するがこのタイプの人間は100%「すっぱい葡萄」状態にあるだけので、100%日常の中の幸福で充足できる。


Sour Grapes」は負け惜しみの慣用句になっているし、確かに「酸っぱい葡萄」の喩えを負け惜しみの意味で使うことは間違っていない。が、原作に近いイソップ寓話*1ではもう少し深みのある描写になっている。もし狐が単に酸っぱいということを言ったのなら、いかにも決めつけの負け惜しみだろう。


しかし、まだ熟れていないと狐は言っているのだ。やはり時機を口実に負け惜しみしていると取れるが、この時間的な要素があるために、後で葡萄を再評価する余地を残しているのだ。この微妙な違いが元々の文脈にどう関係してくるのか、より明確にするために、次に『青い鳥』の解釈を巡る議論に移ろう。*2

青い鳥

『青い鳥』はどんな話だろうか。幸福の対象になる何かを探し求めた挙句、それは身近なところにあったという話だ。しかしこれも単なる「灯台下暗し」とは微妙に違うのだ。非日常を追い求めても無駄だから最初から日常で充足していればいいのだ、という話ではない。ある要求を諦めないで追いかける内に、欲望の対象=原因が生まれるのだが、意図的にその副産物だけを手に入れることはできない。価値の生成と欲望の事後性が重要だ。つまり、経験を積むことではじめて些細なところに幸福を見つけられるようになる。


例えば、アニメ『貧乏姉妹物語』第一話で姉妹がすれ違うところを見てみよう。二人は祭りを楽しみにしているのだが、浴衣と屋台というように互いに目的が違っていた。紆余曲折あって二人は最後に和解するのだが、もしこれが最初から「気持ちが大事だから」と表面だけ合わせているのでは全然異なる。葛藤の過程を経由して他者の内面を理解することが重要なのである。


そしてこの図式を更に進めた作品として、GBソフト『魔界塔士SaGa』が挙げられる。物語の発端では、塔の先にある楽園を目指すところから始まるが、物語の結末では、塔の頂上にあるドアを開けずに、元いた世界へと主人公たちは帰っていく*3。最初から日常に充足してればいいんだ、ではこの倫理性を取りこぼしてしまう*4。そしてアニメ版ハルヒの最終回もドアのこちら側に帰ってくる話だ。ここで更にもう一段、作品固有の視点へ向かう。

最終話

アニメ『涼宮ハルヒ』の最終回は、ほぼ原作通りの進行だが、やはり文章と映像という異なる媒体での異なる領域がある。ハルヒで最も輝いているのはライブアライブの回だと思うが、最終回も地味に面白い。神人は使徒の派生に過ぎないが、だからといってそこで終わりではない。その演出の一つとして、SOS団の部室が吹き飛ぶ(「団長」の三角錐も吹き飛ぶ)場面がある。もちろん原作にも「部室棟にもパンチを入れる」とあるが、これが非常に印象的で良い。なぜか。


もし最初に取り上げたリンク先の文章(の注)にあるように、ハルヒが本当に単なる「酸っぱい葡萄」状態なのであれば、部室だけは手加減してやっても良さそうだ。しかし、ハルヒは台詞=意識(「いいのよ。もう」)だけでなく、その無意識(「俺は戻りたい」〜「意味わかんない」のやり取り後、拒絶する意味で手を離してから、部室が吹き飛ばされる)においても、SOS団はもう用済みなのだ。文化系サークルが作りたかったわけではないと分かる映像になっている。ハルヒは負け惜しみとかではなくて、本気で非日常を求めていた。だから、最後にハルヒが元の日常に帰るところは、単なる妥協の産物ではない。


最後にもう一つ、原作でも「ハルヒの手を取ると部屋から飛び出した」とあるが、キョンハルヒの手を取って前を見ながらひたすら走っている。単に「不思議ちゃんの彼女が欲しい」のであれば、二人で向かい合う形で語り合えばいいのではないか。それともキョンは最後まで人の話を聞かずにハルヒを無視して、自分の文化系サークル青春願望を押し付けただけ、ということなのか。単に神人から逃走するだけはなくて現実逃避しようとしているのか。そこはもう少し微妙なのだ。


キョンはいったいどこに行こうとしていたのか。それは「世界は確実に面白い方向に進んでいたんだよ」という、まさにその方向である。もちろん、その先は地平線の彼方の楽園ではなくて、構成の時系列上から言えば、(視聴者が)いままで見た日常である。それでも、今まで完全にハルヒに振り回されていたキョンが、世界と出会い直すためにハルヒを連れて行くのだ。

*1:中世の訳では狐を好意的に描いているものもある

*2:ところで、読書家の長門が眠れる森の美女、朝比奈が白雪姫をヒントとして伝えるのは面白い。原作では白雪姫は王子様とキスをして目覚めるわけではない

*3:ちなみに続編の結末では最後に旅立つ。それはそれで良いのだが、さらに続編では一脇役として登場する。ドラゴンボール式の戦闘マンガで最初の強敵が脇役に成り下がってしまうような、この安易な組み込みには少し幻滅してしまう。そこがドラクエロト三部作と少し違う

*4:まあSaGaの場合は世界を支配する悪役をやっつけたから、住んでもいいという面が大きいのだが