「まなびストレート!」最終回で、なぜ学美ではなく光香が留学するのか

TVアニメ『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』が最終回を迎えたので考察する。

タイトル・テーマ

タイトルに「がくえんゆーとぴあ」とあるように、このアニメのテーマは理想の学園だ。すなわち、理想の学園(祭)を作ろうとする少女たちの物語なのである。ただし、タイトルに「すとれーと」ともあるが、描き方はストレートではない。ノスタルジーの手法、それも未来に過去を投影する、という形を取っている。つまり、近未来のSF的設定でありながら、古き良き学園像を反映している*1 *2

以下は主人公と最終回の関係に絞って考察を進めよう。

主人公

まなびストレートの主人公は誰か考える。登場人物がわりと並列的に描かれているが、あえて一人選ぶとすれば誰になるか。メインヒロインは「天宮学美」「稲森光香」「上原むつき」「衛藤芽生」「小鳥桃葉」だが、中心人物は学美と光香だろう。

両者の関係は『ドラえもん』における「ドラえもん」と「のび太」のそれに似ている。私は以前からドラえもんの主人公はドラえもんではなくのび太だと考えているので、ここでも「まなび」の主人公は、学美ではなく光香、という結論になる。これは直感に反するかもしれない。なぜか、という理由をごく簡単に述べれば、ユニットの能力ではなくて、プレイヤーが操作できるかどうか、というゲーム的な捉え方をしているのである。つまり、NPC(ノンプレイヤーキャラ)はどんなに能力が高くても主人公たりえない。*3

最終回

学美は幻想の対象であって主体ではない。本編中、学美が演説したり歌うと、桜だとか花火だとかが見える、ユーモアすれすれの演出があったが、それは学美本人ではなく、学美に魅了される他の登場人物の眼を通して見える(幻想的)光景*4なのである。ノスタルジーを見ているのは光香(や生徒や教師たちや更に視聴者)であって、決して学美ではない。なぜなら、学美自身は単に「ストレート」に行動しているのだから。

今まで述べたことは、最終回に明確に現れている。学美を主人公として見る視点だと、最終回は蛇足とまではいかなくてもエピローグ的に感じられるだろう。学美の伝説的な活躍を中心にすると、11話のライブシーンで終わっても別に構わない。だが、光香の視点から見ると、最終回は物語として必要なのである。

なぜ学美ではなく光香が留学するのか

最終回で学園を卒業した後のヒロインたちの進路が興味深い。海外に留学するのは学美ではなく光香なのである。

学美が海外に留学し、生徒会(周辺)メンバーの他の四人が空と飛行機と学美の面影を見上げる、という結末もありそうなものだ。その場合、離別によって学美に対する幻想をそのまま永遠化する結末になる。しかし、幻想を通り抜けて更に成長する結末を取った。今まで述べてきたように、成長できる、成長を決意できるのは光香なのである。

まなび最終回では、今まで輝きを放っていた学美の存在が、急に小さくなったように感じる。また、光香は学美に対する、依存も含めた疑似恋愛的な感情を持っていたが、それが憧れの対象すなわち「恋」から、想い出すなわち「愛」へと感情が変質している*5。最終回は、光香が成長して追い越していく視点で描かれているのである。*6

*1:この背反する設定は、例えば芽生が3DCGムービーを作って生徒が驚くという場面、また学園長が学生運動らしき過去を回想する場面などで、やや齟齬をきたしている。つまり、現在を基準にした感がある

*2:ただ、落書きというモチーフを通じて最後が最初に繋がる最終回は、ノスタルジックな手法として合っている

*3:ただ、両者の関係はどちらかというとホームズとワトソン型と言えるかもしれない。その場合、実質的主人公はホームズで、形式的主人公はワトソンになると捉えている。読者がホームズの視点から物語を見ることはできないが、一方ワトソンは事件を解決する能力がない

*4:例えば「あずまんが大王」で言うと、登場人物の夢の中に出てくる「(髪の毛を取ると死んでしまう)ちよ」や「ちよの父」に相当する

*5:涙が込み上げるシーンに現れている

*6:ちなみに、魅惑的な幻想を通り抜けて、最後まで描ききるという点で、「ジサツのための101の方法」とは対照的な結末になっている