『うみねこのなく頃に』EP7・朱志香犯人説

概要

 07th Expansion 製作のPCノベルゲーム『うみねこのなく頃に散 Requiem of the golden witch』(以下「EP7」)の仮説を提出する。「EP7」「ベアトリーチェ殺人事件」の犯人は朱志香という説(以下「朱志香説」)だ。


警告:以下、『うみねこのなく頃に』EP7の内容を明かしています。未見でのネタバレを嫌う場合、同作品をプレイした後にお読みになることを推奨します)

前提

 まず、「EP7」をプレイしていれば、「EP7」「ベアトリーチェ殺人事件」の犯人は紗音であるという説(以下「紗音説」)を思い浮かべるのが普通だろう。プレイすれば容易に理解できることなので、紗音説は説明しない。また、紗音・嘉音同一人物説についても、ネットですでに考察されているので、ここで改めて検証することはしない。

 だが、紗音説が最有力なのは自明なので、ただそれを追認するだけでは面白くない。そこであえて、紗音以外の可能性を探ろう。理御はすでにライトに指名されて、残る犯人候補には、朱志香、嘉音、(上位世界の)戦人などがいる。ここでは、朱志香ひとりに絞って考察しよう。

立論

 では、「EP7」「ベアトリーチェ殺人事件」の犯人は朱志香であるという説(「朱志香説」)を立てよう。

 この朱志香説の核である、ベアトリーチェは朱志香と同一人物だという発想は、もちろん出題編の頃からすでにある。ただ、「EP6」「EP7」が紗音・嘉音同一人物説に有利な展開になっているため、ここにきて再浮上させることの意味もある。

 「EP7」には、紗音説を裏付けるかのような記述が多々ある。たとえば、理御と紗音・嘉音の間に面識がないだとか、紗音・嘉音が同時に存在しないといったものだ。紗音=嘉音=理御=ヤス=クレル=ベアトリーチェが同一人物なら、それを説明できる。

 しかし、理御=紗音=嘉音と、朱志香=ベアトリーチェが、別系統だという解釈もありうる。これなら、理御と紗音・嘉音の関係を説明しつつ、ベアトリーチェ殺人事件の犯人を朱志香にできる。

 「EP7」の前半ではウィラード・H・ライトの視点で、後半ではヤス=クレルの視点で物語が進行する。この後半部分に、紗音・嘉音と朱志香・ベアトリーチェの視点が混在している、という叙述トリックがあるのではないか。

 そこでは、ベアトリーチェは朱志香だったか、もしくは、紗音と朱志香の間で、ベアトリーチェ役が継承、あるいは共有されていた。さらに、朱志香は空想上の「ヤス」になる「使用人ごっこ」を止めて、魔女になったという展開もありうる。

 これなら、福音の家関連の事情など、紗音説でなくても説明できる。朱志香は六軒島に住んでいたのだから、煉獄の七杭のモデルになった使用人を見ているだろうし、紗音から話を聞くこともできただろう。六軒島の怪談も知っている。

 また、お茶会の進行で、朱志香が霧江に顔を潰されているため、入れ替わっていて実は死んでいないという展開もありうる。朱志香説を紗音説の対抗にしているのはそのためだ。

検証:「貴賓室の怪談」

 「EP7」「貴賓室の怪談」の章にあるが、朱志香は「もうひとりの自分」を生み出し、仮病でセキをするフリをしていたから、「マリアージュ・ソルシエール」でいうところの「魔法」が使えてもおかしくない。

 ここで、真里亞はベアトリーチェを、「精霊」のように形而上的な存在だと解釈しているので、途中から演者が交代しても疑問に思わない。「今の妾は魔力が弱いので、朱志香の身体に憑依しないと、姿を現せないのであるぞ」などと説明すればよい。

 さて、「EP7」には、紗音説の方が自然な部分がたくさんある。しかし逆に、朱志香説の方が説明しやすい部分が、少なくとも1箇所ある。

 これも「貴賓室の怪談」の章で、朱志香が午前2時頃に貴賓室へ忍び込むと、真里亞から以下のような内容の電話が掛かってくる。

「………もしもし?」
『うー! ベアトリーチェ、こんにちは…!』
「え? ま、……真里亞ッ…?!」
「も、もしもし…?!」
『この間は、楽しいお歌を聞かせてくれて、ありがとう。だからお返しに、真里亞もベアトリーチェに歌うね。習った新しいお歌を歌うね! うー!』


 ここで注目すべきは、朱志香の声を聞いても全く意に介さず、ベアトリーチェに対して喋っているかのような、真里亞の態度である。

 すでに、朱志香と真里亞は、ベアトリーチェの存在をめぐってケンカしている。朱志香はベアトリーチェの存在を認めていない。だから、真里亞は「うー! ベアトリーチェじゃない!」という反応をする方が自然だ。

 これは、この日以外の午前2時の貴賓室では、朱志香のもうひとりの人格がベアトリーチェを演じていた、という証拠ではないか。

 この後の真里亞に対しては、後で朱志香ベアトか紗音ベアトが「すまぬ真里亞よ。あの日は、魔力がちと足りなかったゆえ、朱志香の意識を奪えなかったのだ」などとフォローしておけば済む。また、朱志香からの質問に対して、真里亞は嘘をついたのだ。

 ただし、朱志香が言うように、「真里亞の声は、予めカセットテープにでも録ってあって。それを午前2時ちょうどに電話して再生ボタンを押した」という解釈でも、一応のつじつまは合う。

 しかし、それだと釈然としない部分が残る。もし、使用人たち(おそらく、源次、熊沢、紗音)の偽装工作であるとしたら、そもそも朱志香に対して真里亞の電話を聞かせる意味がよく分からない。

 上のように反応が不自然だから、テープであることがすぐにバレてしまう、と気がつきそうなものだ。「ベアトリーチェ?」という一言だけ流して電話を切る方が、上手く騙せるだろう。

 ただ、犯人(もしかすると作者)が、単にそこまで深く考えなかった、という可能性も残る。あるいは逆に、「EP1」ラスト付近の密室内で、真里亞が歌を歌っていたのはテープの可能性がある、ということを示唆するためのものか。

課題

 問題点も明かしておくと、朱志香説では不自然な点も多々ある。たとえば、出生関係の話と金蔵との会話、1986年だから惨劇が起きた謎、といった辺りは紗音ベアトの方が通りがよい。

 戦人との関係に関しては、朱志香と紗音のどちらでもおかしくない。だが、この説の弱点として、家出した戦人から手紙をもらうシーンの整合性がある。朱志香がすでに手紙をもらっているので、視点人物は紗音であると考える方が自然だ。

 しかし、前述のように視点人物は朱志香と紗音のふたりが混在しているか、幻想描写による現実の隠ぺい・改ざんが行われていた(金蔵の黄金横領のように)、と解釈すれば解決する。

 これは、「EP7」は赤字が少ないので、幻想描写を多用したと想定すれば、解釈の余地がかなり残る、ということでもある。さらに裏返せば、「EP8」までネット上での推理を絶やさないために、作者の竜騎士07氏があえて余地を残したとも取れるだろう。

 また、「EP1」〜「EP6」までの検証がまるまる残っている。しかし、ベアトリーチェの設定が全EP共通とは限らず、紗音ベアトと朱志香ベアトで両方のパターンが存在する可能性もある。

 さて、『うみねこ』では作中作の構造によって、地の文で偽の記述(「幻想描写」)ができるようになっている。真であることを保障された赤字の記述による禁止を回避できれば、どんな仮説も最低限成立する。

 『うみねこ』の考察にあたっては、解の一意性にこだわらない。赤字(の禁止と矛盾するもの)以外は全部正解、というスタンスで臨む。第1作で「面」の推理という記述があり、その方が作者の意図にも沿うだろう。

 他の説が成立する、他の説のほうが有力である、というだけでは、この説を覆したことにならない。次回作の「EP8」では、紗音説が完全に確定するかもしれないが、それまでは仮の正解が複数あっても構わないはずだ。

 結局、紗音説が最有力だろうが、「EP8」までに最後のどんでん返しがある方が面白いので、あえて朱志香説を提示してみた。

関連作品

うみねこのなく頃に Episode1(上) (講談社BOX)

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うみねこのなく頃に

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法人税を下げる必要はないし、消費税を上げる必要もない

概要

 荒井経済財政相は23日午前の閣議に、2010年度の年次経済財政報告(経済財政白書)を提出した。

 白書は、長引くデフレからの脱却に向けて、成長力を強化するために法人税の実効税率を引き下げ、企業の収益力強化を通じて家計の所得を増やす必要性を指摘した。また、国の財政再建のため、消費税率の引き上げを強く促す内容となっている。

 しかし、法人税を下げる必要はないし、消費税を上げる必要もない、と私は考える。以下で詳しく述べよう。

法人税を下げる必要はない

 上記の経済財政白書では「企業が家計に分配する原資が必要で、企業が収益を拡大できるような基盤整備が求められる」とか「企業が居心地が良い国は家計にとっても良い」と述べている。

 これは財界の要望に基づいた政策だろう。去る2008年10月、経団連は「税・財政・社会保障制度の一体改革に関する提言」を提出した。そこで、消費税率を最低でも5%引き上げ、法人実効税率を10%以上引き下げるよう要求している。

 だが、家計の収益を上げるために、消費税を増税するという理屈には、疑問を覚える。少なくとも、歴史的にはそのような成果はない。

 1989年の導入から2008年まで20年間の累計で、消費税は約200兆円徴収された。その一方で、法人税は約160兆円の減収。

 つまり、消費税引き上げによる収入の8割は、法人税の引き下げに振り替えられている。すでに、法人税引き下げのための消費税引き上げはなされていた。が、それが家計を潤すということはない。

 1997年に消費税を3%から現行の5%に上げてから、消費税自体の税収は増えたものの、税収全体では落ち込み、以後は97年の水準に回復できていない。

 また、現在の日本では、企業の内部留保は増えたが、労働分配率は下がっている。具体的に言うと、2001〜2005年度にかけて、企業の利益が約10兆円増えているが、雇用者報酬は約8兆5千億円減少している。

 だから、法人税が安くなることで、雇用や賃金が増えるかというと疑問だ。利益を出しても税金に取られず残るなら、人件費を出すよりもカットする動機の方が強くなる。

国際競争力は下がらない

 次に、企業の国際競争力が落ちるから、法人税を下げるべきだ、という論点も検討してみよう。

 日本の貿易収支は、2008年まで27年連続して貿易黒字を達成していた。ちなみに、最新のデータによると、2010年上期(1〜6月)の貿易収支が、約3兆4千億円の黒字となっている。

 国際貿易において、家電の分野では韓国に追い上げられてはいる。しかし、自動車など他の分野が好調なため、黒字を保っている。国際競争力は今でも十分ある。

 法人税は利益に対する課税なので、赤字法人には恩恵がない。法人税を安くすると競争力がつくかといえば、黒字法人の黒字がより増えて強くなるから、市場を寡占されて競争はむしろ減る。

 また、法人税を安くすると、単に利益としてため込む。それよりは、研究開発費を必要経費として認めたほうが、技術的な競争力はつく。

 次に、法人税が下がらなければ、法人税がより安い海外に移転してしまう、という論点を吟味しよう。

 じつは、見た目の数字だけでなく、内実をのぞいてみると、そんなにかけ離れていない。

 法人税の実効税率を見てみよう。日本は40%(標準税率)、アメリカが41%(ロサンゼルス)、フランスが33%(パリ)、イタリアが37%(ミラノ)。

 さらに、社会保障費の事業主負担が、イギリス、ドイツ、イタリア、フランスなど、先進主要国より少ない。つまり、税金以外の負担も考慮すると、日本だけ高いわけではない。

 ただ、じっさいに企業の海外移転は行なわれている。だが、それはどちらかといえば、法人税を節約するよりも、人件費が安上がりな市場か、もしくは規模が大きな市場へ向かうのが目的だ。

 日本とアメリカが同じ水準だというのは、税金を安くしなくても企業が集まる市場である、ということでもある。

 ただし、欧州については、欧州独自の事情がある。EU各国で市場が統一されているにも関わらず、税制が各国で異なるため、企業誘致のために下げざるを得ない。

消費税を上げる必要はない

 法人税のダウンは、消費税のアップとセットで議論される。消費税引き上げの是非についても検討したい。

 最初の白書に戻って、家計に良いことを考慮するなら、輸出よりも、内需拡大の方が重要だ。しかし、消費税を増税すれば、内需は落ち込むだろう。

 消費税の税率引き上げで生じる最大の問題は、逆累進的な課税であることだ。逆進的にしてしまうと、消費が冷え込んで、資金が循環しなくなる。

 しかも、中小企業から大企業への所得移転も伴う。なぜなら、中間取引の販売者が中小・零細の下請け業者の場合、最終購入者である大企業の力が強いため、販売価格を引き上げられない。

 中小企業が消費税分を実質的に負担する一方で、過大な控除や「輸出戻し税」を通じて大企業が益税を得る。*1この輸出戻し税だけで、消費税の約2割に相当する2兆円もある。

 また現状では、7割の赤字法人が法人税を払わずに済んでいる。

 たとえば、大手銀行5行は、95年から15年間連続で、法人税を全く納めていない。それは、バブル崩壊後の不良債権処理に伴った累積赤字を、繰越欠損金にすることが認められているからだ。

 したがって、法人に対して利益ではなく資本・付加価値をベースに課税する「外形標準課税」の導入も、消費税導入より先に検討されるべき課題だろう。

 あるいは、株式投資の利益や配当に掛かる税金を低減する、証券優遇税制を止めるだけでも、1兆円の財源になる。高額所得者は分離課税されているため、そもそも課税が累進的でない。

 もしかりに、消費税を上げるにしても、食料品などの対象を非課税にすることが必要だろう。

消費税を下げる道もある

消費税は0%にできる―負担を減らして社会保障を充実させる経済学

消費税は0%にできる―負担を減らして社会保障を充実させる経済学

 以下では、経済学者・菊池英博氏の説を紹介したい。議論の詳細は、菊池氏の書籍をご覧頂きたい。

 まず、消費税は見かけの税率ほど低くない、という話がある。消費税5%のうち、国税は4%で、約10兆円に相当する。2006年度における国税収入全体に占める比率は、22%となる。

 一方、スウェーデンは、国税ベースでの消費税は25%。国税全体に占める消費税の割合は22%。つまり、日本と同じになる。

 また、菊池氏は、じつは財政は黒字ではないかと疑う。政府の財政のうち、一般会計だけを取り上げて「財政危機」を叫び、増税を国民に持ちかけておきながら、特別会計は放漫財政なのだという。

 特別会計の方では、積立金、剰余金、次期繰越金(内部備蓄金)が認められている。そして、100兆円を超える備蓄金の運用益が、毎年3〜4兆円ある。しかし、この資金は使途不明なのである。

 そして、菊池氏は、アメリカ税制の歴史に注目してもいる。日本税制の消費税導入は、アメリカのレーガン大統領が採用した、市場原理主義型の経済政策と税体系を模倣したものだ。

 レーガン大統領は就任後、所得税法人税の税率を大幅に引き下げた。その理論的バックボーンには、経済学者のミルトン・フリードマンが考えた「フラット税制」がある。

 また、個人所得税の減税によって労働者の勤労意欲を高め、課税所得を増やすという「ラッファー理論」がある。さらに、富裕層に対して減税すると、経済が成長して、他層に波及効果があるという「トリクルダウン理論」がある。

 しかし、大幅減税による経済効果はない、どころか税収は減り、現実には財政赤字が拡大する。しかも、貿易収支の赤字も拡大したので、財政赤字貿易赤字の「双子の赤字」を抱えた。その結果、アメリカは債務国へと転落した。

 一方、クリントン大統領は、税制の累進性を強化している。所得税法人税最高税率を引き上げ、一定水準以上の高額所得者に対する付加税を導入した。

 それと合わせて、労働所得の控除や、低所得者が対象の住宅取得控除や、企業の研究開発支出に対する税額控除などを拡大し、民間の投資を喚起する施策を行なう。

 これらの政策によって、財政収支は黒字に転換した。さらにこれに伴い、多くの州で消費税率が下がり、ニューヨーク州などでは消費税ゼロ%の分野が増えた。消費税ゼロへの道が開けたのである。

 ちなみに、アメリカのオバマ現大統領は、レーガンの「税制と財政政策」に関する議会で「失敗した時代遅れの考え」だと発言している。その考えというのが、まさに冒頭の白書なのである。

*1:この問題を解決するのに、「インボイス」方式が必要だろう

なぜ日本人は不幸なのか

概要

ド〜する!? 世代間格差
ド〜する!? 若者の未来
ド〜なる!? 日本の将来


なぜ、現代の日本人は不幸なのか。それは、個人の幸福を犠牲にする形で、組織が成功するシステムになっているから、だと私は考える。テレビ番組「朝まで生テレビ」の討論を参考にしつつ、以下で詳細を述べよう。

希望のない自殺大国・日本

希望の国のエクソダス (文春文庫)

希望の国のエクソダス (文春文庫)

この国には何でもある。

だが、希望だけがない。


最初に、日本人、特に若者が不幸だ、という原因を見てみよう。番組では英大学・研究者による「幸福度」の世界ランキングが示された。それによると、日本は90位(178ヶ国中)。中国や韓国より低い。

ただし、この調査については、幸福の基準は主観的なものだし、データの取り方でまた順位が変動するから、別の見方の余地もあるだろう。しかし、より客観的な指標である自殺率のランキングも示されている。

自殺率の世界ランキングで、日本は世界6位(103ヶ国中)。これに加えて、12年連続で国内の自殺者が3万人を越えており、20代・30代の死因トップは自殺であるという。

さらに、00年代に入ってから、変死者が数万人単位で増えている。そこには、孤独死のような社会的困窮による死も含まれるのではないか。だとしたら、不幸な死はさらに増えることになる。

そこで、「幸福の基準は人それぞれだから、一概に不幸とはいえない」という、相対主義の立場には立たない。

少なくとも、世界的に見て自殺者が多い、というのはデータで示された事実だ。そして、自殺者が不幸である、という前提は多くが認めるところだろう。それならば、自殺するような不幸な人間が、少なくとも先進諸国に比べて多い、ということが言えるのだ。

老人は強い、若者は弱い

世代間格差ってなんだ (PHP新書 678)

世代間格差ってなんだ (PHP新書 678)


それでは、不幸な日本人が多いのはなぜか。番組内では様々な論点が示されたが、ここでその1つ1つを追うことはしない。

議論のひとつの軸になったのは、世代間格差の問題だ。それが具体的には、年金問題として語られた。少子高齢化に対応するため、世代間の賦課方式から、世代ごとの積立方式に変更すべきだ、といった論調だ。

ただ、世代間格差の詳細については、出演者である山野車輪氏の『若者奴隷時代』や、高橋亮平氏城繁幸氏の『世代間格差ってなんだ』に譲ろう。

私としては、現代日本における社会格差の根本は、組織と個人のパワーバランスの偏りにあり、世代間格差というのは、その個人へのしわ寄せが、少数派の若年層へ来たものだと考える。次で詳しく展開しよう。

組織は強い、個人は弱い

日本では、組織が強く、個人は弱い。これは、単なる比喩ではない。事実として、ここ最近の労働分配率の低さとなって現れている。

具体的に言うと、2001〜2005年度にかけて、雇用者報酬が約8兆5千億円減少し、逆に企業の利益は約10兆円増えている。同時に、株主への配当金や大企業の役員報酬も増えた。

つまり、今世紀初頭に入って、非正規労働者が増え、労働者の給料が下がった。そのことで、個人から組織へと、資本が移動していたのだ。番組でも、最低賃金生活保護の給付額を下回ったことが示されていた。

なぜ、非正規雇用への切り替えが進んだのか。円高を受け、製造業が海外にシフトしたため、海外の安い労働力と競争することになったためだ。そもそも、製造業の雇用者数が、1992年から2002年の十年で、約350万人も減少している。

個人が弱いといっても、企業組織から恩恵を受けられる、株主や経営者は別だ。また、一部の有名人や専門家も別だ。しかし、組織の外部に放り出された非正規労働者の大多数は不幸だろう。

日本における幸福の基準のひとつに、どこの組織にいるか、組織の外にいるか、というのはある。もちろん、それが全てではないが、無視できないほど大きい枠組ではあるだろう。

どの組織のどの階層に所属するかで、幸福かどうかが決まる部分が大きい。そして、世間一般で言うところの、幸福になる努力とは、良い組織に所属するための努力である。

じっさい、番組の最後で発表されたアンケートでは、40代のバブル世代は幸福、30代のロスジェネ世代は不幸、と答えた割合が全体の中で多かった。

自殺問題と貧困問題

自殺の問題のうち、ある程度は貧困の問題だ。貧困というのはたとえば、厚生労働省が行なった2007年の調査で、全国民中に占める低所得者の割合を示す「相対的貧困率」が15.7%。OECD経済協力開発機構)加盟30国中では4位になっている。

だが視点を変えると、貧困に還元できる問題は社会的に解決できる。たとえば、スウェーデンでは、失業率が増えても、自殺者は減った。失業を前提にした福祉制度が用意されているからだ。

しかし、日本はいまだに終身雇用を前提にしているため、失職時のリスクが大きい。すると、いやがおうでも組織にしがみつかざるを得ず、ストレスは大きくなる。これも不幸の原因だ。

要するに、日本の経済市場が変化しているのに、政治制度は高度成長時代のモデルから変革できていない。そして、そのしわ寄せが、特に若年層に集中している。

大組織には公的資金、個人には自己責任

そのように改善が遅れる要因には、もちろん旧来の利権体質もあるだろうし、少子高齢化による逆ピラミッドの人口構成もあるだろう。

だがそれだけではなく、個人よりも組織が大事だという日本的な思想が、制度改革を阻んでいるのではないか、と私は考えている。

日本における個人同士の関係はきわめて薄い。有名人や専門家は別として、普通は所属している組織同士の関係に置き換わる。つまり、Aさんとの関係ではなく、「B社のAさん」というように、組織の代理との関係に置き換わる。

そうしたことが、組織を重視し、個人を軽視する思想の土壌を形成している。たとえば、大組織が経営破綻しても、公的資金が注入される一方で、「自己責任」といって個人は救済されない。

そうした状況に対して、カウンターが起こらない。むしろ、ネットを見ても分かるように、感情的に「出る杭を叩く」ために、叩きやすい個人を叩く方が多いだろう。

ここで、いや、個人も救済することがあるではないか、というかもしれない。しかし、組織とは言わなくても特定の層のみ、救済する仕組みが多い。たとえば、公共事業で特定の産業が潤うとか、特定の業種に所得保障するとか。

だがそれでは、特定の層に当てはまらない個人が、救済されない。個人の所得を基準にした保障が必要だろう。そうなっていないのは、利害団体に所属しない個人を保障しても、利権が生じないからだ。

要するに、多くの若者は利権が生じる層に所属していない。そのため、負担が集中するが権利は得られない、ということだ。

富める者はさらに富み、貧しき者はさらに貧しく

そのように、組織や場所や空気を個人よりも重視する日本の風土がもともとあった。そこに、経済のグローバル化という、現代的な地盤の大変化が加わる。

具体的に何かというと、企業が海外に移転できるために、法人税を上げにくい。すると、消費税を上げようという話になってくる。これも、組織が強く、個人が弱い例だ。

あるいはたとえば、サービス残業というのも、個人が組織に対してサービスさせられているのだから、組織が強く、個人が弱い例だ。

前述のように、雇用者報酬が減っている上に、サービス残業で労働時間が伸びていく。だから、組織は成功するかもしれないが、その引き替えに個人は不幸になる。

それなら、個人のままで起業する手はないだろうか。しかし、たとえば地方の小売りなら、郊外型・大規模ショッピングセンターが席巻して、駅前の個人商店街はシャッター街になる、という現実がある。これも組織が強く、個人が弱い例だ。

これらのことから、富める者はさらに富み、貧しき者はさらに貧しく、というマタイ効果*1に歯止めを掛ける力が社会にない。そして、格差拡大は止まらない。

組織が個人に優先する構造

労働環境の悪化問題に関しては、政府・行政の規制が弱い、というのがまずあるが、行政以外の組織によるオルタナティブな運動も弱くなった。

というのはたとえば、労働組合の組織率が低下して、2000年代に入って2割を切っている。組合の弱体化の要因は色々あるが、非正規雇用の増加というのはひとつある。なぜなら、組織を転々とする非正規雇用者にとって、企業別の組合に加入する動機がないからだ。

この対策として海外を見習い、企業別ではなく産業別で組合を作る、という手はある。じっさい、そうしたユニオン・コミュニティも出てきている。だがそもそも、なぜ組合が企業別になっているかといえば、前述のように転職を想定していないからだ。

そして、転職が想定されないのは、転職すること自体の人事的評価が低いことと、特定の企業だけで通用する人材になること(内部労働市場化)があるからだ。結局どこまでいっても、組織が個人に優先する構造が、日本には見出せる。

それでも、かつての高度経済成長の頃は、右肩上がりの経済成長の期待があった。会社に奉公すれば、やがて報われるのだ、という期待があった。しかし今では、サービス残業のような奉仕を求めて、一方ではリストラするのだから、働く動機も低下するだろう。

日本人のいない日本の未来

これは大雑把な印象論になってしまうが、90年代に比べて、00年代は表面上は安穏としている。だが、格差は広がっており、問題は何も解決していないし、閉塞感は全くぬぐえない。それはつまり、次のようなことだと、私は思う。

90年代では、時代が変化している、それに対応して何か変えなければならない、という危機感や恐怖があった。しかしそれが00年代に入ると、個人の力では組織や社会システムを変えることはできない、という無力感や諦念に変わったのではないだろうか。

さて、そのような状況に対して、経済的な国際競争力のためには、弱者を切り捨てて構わない、という考え方もあるだろう。一方で私は、少しは個人を保護する必要があるだろうと考える。そう考えるのには、若者が弱者になっているために、国の運営の基盤が揺らがされていることを背景にしている。

というのも、日本の少子化が止まらない。総務省の発表では、15歳未満の子供の数が、2010年時点で、29年連続の減少となった。また、算出基準によって数字が変化するが、2050年には、日本の人口が1億人を切り、2100年には5千万人を切る、という見通しもある。

しかも、このことが冒頭で述べた世代間格差を再生産してしまう。どういうことかというと、まず格差があるため、子供が産みにくい状況がある。そのため子供の数が減った。すると、少数派である若者の負担が重くなる。そのことで、ますます子供は減る……というサイクルだ。

ただ、日本の政府は、それを外国からの移民で解決してしまうかもしれない。そして、日本の組織は日本に残るだろうが、日本人という民族は日本に残らないのかもしれない。「国破れて山河あり」をもじれば、「人滅びて組織あり」である。

最後に、資本主義とは、資本を自己増殖させる運動である。資本主義にとって、経済主体は特定の民族に依存しない。したがって、グローバル資本主義が、日本から日本人をリストラしても、何もおかしくない。

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キュアサンシャインの変身シーンは『プリキュア』の華

概要


 現在放送中のアニメ『ハートキャッチプリキュア!』。その第23話「キュアサンシャイン誕生ですっ!!」では、ヒロインのいつきが、魔法少女キュアサンシャイン」に初めて変身する。

 その変身シーンは、『プリキュア』だけでなく、魔法少女ものアニメ全体においても、特筆すべきほどクオリティが高い、と私は考える。そこで、そのシーンを紹介し、感想を述べたい。

23話「キュアサンシャイン誕生ですっ!!」

 本作を未見の読者のために、変身シーンに至るまでの背景を、少し説明しておきたい。

 『ハートキャッチプリキュア!』は、魔法少女もののテレビアニメである。魔法少女プリキュア」たちが、精霊の力を借りて変身することで、戦う力を得て、悪の組織から人々を守る、という物語だ。

 すでに、花咲つぼみ(はなさき・つぼみ)/キュアブロッサムと、来海えりか(くるみ・えりか)/キュアマリンが活躍している。その2人に加えて、23話「キュアサンシャイン誕生ですっ!!」では、明堂院いつき(みょうどういん・いつき)/キュアサンシャインが、新たな魔法少女のメンバーとなる。

 いつきは、つぼみたちと同じ学園に通っていた。彼女は、病弱な兄・さつきに代わって、古武術の道場を継ぐ立場にある。そのため男装しているが、可愛らしいものが好きだという、人には見せない女の子らしい側面も持っている。

 兄のさつきは手術を控えており、周囲には伏せているものの、彼の心中には不安が渦巻いていた。その不安を悪の組織につけこまれて、怪物へと変身させられてしまう。これはじつは、精神的な外傷が実体化したものである。

 その怪物に、つぼみとえりかが、立ち向かうものの、あえなく退けられてしまった。そこで、いつきがキュアサンシャインに変身して戦う、――というのが23話の内容だ。

 本編の中で、太陽とそれを隠す雲が描かれている。これは、兄が本心を隠していたり、不安に押し潰されそうなことの隠喩的表現だろう。そして、いつきが変身したキュアサンシャインは、雲を切り裂いて登場する。

キュアサンシャイン」変身シーン

 キュアサンシャインが変身するシーンは、そのシーンだけで、作画枚数が5千枚くらいあるらしい。それだけあれば、通常のアニメ本編1話を作れるほどの数だ。制作側がいかに力を注いでいるか分かる。

 そうしたこともあり、変身シーンは、アニメならではの躍動感あふれる画面になった。たとえば、香水の容器のような変身アイテムを、ジャグリングのように軽快に持ち替えている。また、突きや回し蹴りの豪快なアクションもある。

 その他にも、動きのあるカメラワーク、パースを強調してダイナミックに描かれた人体、豊かなポーズと表情、印象的な瞳のアップ*1、と目を惹く点が多彩だ。

 香水は女性的で、格闘は男性的ではある。が、いつきが中性的な人物であるため、両方の要素が入っていても違和感がない。しかもそのことによって、性的な媚びがなく、健康的な魅力が感じられるものとなった。

 また、変身中の画面は、ヒマワリの花をモチーフに、黄色を基調とした色彩で描かれている。さらに、キュアサンシャインが、満面の笑みを浮かべる。そういうことがあり、輝かしい印象になった。

 そして、変身後の戦闘シーンで、キュアサンシャインは圧倒的に強い。これはもちろん、武道をやっているから強いのだろう、という合理的な解釈もできる。

 しかし、それと両立して、心理的な解釈*2もできる。まず、兄を救いたいと想う気持ちが強いこと。そして、本当の自分をさらけ出せない、という苦しみを理解していること。そこで、キュアサンシャインだからこそ、立ち向かえるのだ。

 したがって、変身というのは、衣装を替えるだけではなく、抑圧*3からの解放でもある。というのも、変身中に彼女の髪の毛が伸び、女の子らしい長髪になるが、それは家を継ぐという社会的立場を離れたときの、彼女が望むもうひとりの自分*4なのである。

 そして、本編の最後では「陽の光浴びる一輪の花、キュアサンシャイン」という決めゼリフとともに、花のつぼみ、あるいは、ハートが開くようなジェスチャーをする*5。これも、彼女の可能性のようなものが開かれる、という表現になっている。

 さて、見所の多いキュアサンシャインの変身シーンに、私は全く不満がない。何回見ても飽きない。これは満点、いや満点以上だと思う。魔法少女ものの歴史に残る名シーンだと言いたい。

 この変身シーンは、作品中に組み込まれた一場面というだけでなく、それ自体がひとつの独立した作品と見ても成立するのではないだろうか。それはたとえれば、小説中の詩や、演劇中の舞踏と、同じ性格を持つ。

 さらに言えば、「ハート」というのは、単なる人体の器官としての心臓だけでなく、その人の精神を象徴する。そのような意味において、キュアサンシャインの変身シーンは、まさしく作品の「ハート」になったのである。

*1:ヒマワリの花を連想させる

*2:そもそも、この作品では味方も敵も、一種の心の力で変身するわけだから、この作品においては合理的だ、とみなすこともできるだろう

*3:はてなブックマークのコメントで指摘があったが、自分が完全否定されるような、単純な抑圧ではない

*4:やはりはてブの指摘があって、「本来望む姿」から表現を弱めた。彼女自身が望んでいるところがあり、単純に抑圧されてはいない。が、オルタナティブな自分になりたい、という変身願望はあるだろう

*5:ただし、このジェスチャー自体は、他のプリキュアと共通の振り付けではある。が、手の向こうから笑みが覗くところなどが、キュアサンシャインらしいと思う

セカイ系、シャカイ系、セケン系

概要

 ここでは、「セカイ系」の定義を拡張して、「シャカイ系」と「セケン系」を作り、その3つの系を比較したい。

個人・社会・世界

主人公とヒロインを中心とした小さな関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」など、抽象的な大問題に直結する作品群のこと
(『美少女ゲームの臨界点』、波状言論

 まず最初に、以下の展開は全て、上記の定義を前提にしている。もちろん、「あくまで『新世紀エヴァンゲリオン』後の現象なので、そのように抽象的な定義はできない」という立場もありうるだろう。

 上記の定義には、「小さな関係性」「具体的な中間項」「抽象的な大問題」という3つの要素がある。より具体化すれば、「個人」「社会」「世界」という3要素になるだろう。

 そのうち、「具体的な中間項」(社会)が抜け落ちる作品を、セカイ系としている。それを踏まえてここでは、この定義を変形し、他の2つが抜け落ちるものに適用してみたい。

  • セカイ系
    • 個人−(社会)−世界
  • シャカイ系
    • (個人)−社会−世界
  • セケン系
    • 個人−社会−(世界)

 個人・社会・世界のうち、社会が抜けるものをセカイ系としたときに、個人が抜けるものをシャカイ系、世界が抜けるものをセケン系、とここでは定義したい。

 ただし、この3系は、個人・社会・世界の描き方が偏ったものを分類する基準だ。だから、あらゆる作品が3つのいずれかに必ず分類される、というわけではない。

セカイ系

 前景に個人を、遠景に世界を配置するのがセカイ系だ。当てはまる作品を挙げれば、『最終兵器彼女』『ほしのこえ』など。

 前景の自意識やヒロインとの関係が、遠景にある世界の問題と直結している。たとえば、『ほしのこえ』では、主人公のヒロインが、惑星間の戦闘に関わっていた。

 セカイ系に社会の位相が抜けている要因として、中景となる社会の描写より、前景にリソースを割く、という制作上の都合は、ひとつ挙げられるだろう。

 特に、美少女ゲームであれば、グラフィック・サウンド・ボイス・スクリプトと、シナリオ以外の作業工程が増えるので、主人公とヒロインの関係に絞りたいという事情はあるはずだ。

 セケン系の個人と異なり、セカイ系の個人は、世界と解離した状態にある。そこで、セケン系の安穏とした日常とは異なり、個人は解離した世界を捉えきれず、実存的に苦悩する。

シャカイ系

 前景に社会を、後景に世界を配置するのがシャカイ系だ。当てはまる作品を挙げれば、『コードギアス』『デスノート』など。

 前景に社会的組織があり、その後景には世界のリアルさ、たとえば権力や暴力が描かれる。そこで、物語はゲーム化された権力闘争という形を取ることが多い。

 シャカイ系に個人の位相が抜けている要因として、物語構成上、社会的ゲームの設定を導入するので、人物がゲーム盤上の駒という扱いになることは、ひとつ挙げられるだろう。

 社会的ゲームが重要なので、そこでのコミュニケーションは、表面上のやり取りに過ぎない。たとえば、『デスノート』での月とLの交流がそうだ。

 セカイ系の世界が、観念的な世界だったのとは異なり、ここでの世界は構造的な世界になっている。すなわち、個人が意味付けするものではなく、社会的ゲームのルールとなる、機械的な規則に他ならない。

 たとえば、『デスノート』における「デスノート」のルールが、同作品における世界に相当する。

セケン系

 前景に個人を、後景に社会を配置するのがセケン系だ。当てはまる作品を挙げれば、『らきすた』『けいおん』など。

 これは、いわゆる「日常系」「空気系」と言い換えても、別に構わない。だが、このエントリの目的は、単なる言葉の言い換えではない。他の2つの系と比較して、差異を明らかにするのが目的だ。

 前景には個人があり、後景には(個人から見渡せる範囲で)共同体の連帯が描かれる。世界の問題や、謎や、リアルさは描かれない。

 セケン系に世界の位相が抜けている要因として、世界のリアルさが性や暴力につながるから、という物語制作上の必然性は、ひとつ挙げられるだろう。とくに、四コマ・マンガでは、不条理系をのぞけば、たいてい日常を描く。過剰な性や暴力要素は日常に向かない。

 シャカイ系のゲーム盤としての社会とは異なり、個人がつながる範囲での社会になっている。したがって、ここでは社会的ゲームは表面上のことで、むしろ個人間のコミュニケーションこそが実質となる。

 たとえば、『らきすた』で、学校の勉強というのは、学校での話題のひとつに過ぎない。その点数によって、主人公たちの友情に、決定的なヒビが入るようなことはない。ここがシャカイ系の社会と違う。

00年代のムーブメントの推移

 分かりやすさを優先するため、単純にまとめると、00年代の流行は、セカイ系 → シャカイ系 → セケン系と変遷している。

 これは、受容する読者側の興味が、セカイ→シャカイ→セケン、と推移しているのかもしれない。つまり、『エヴァ』の時代から、だんだん興味の対象が、日常に向かったのではないか、ということだ。

ノベルゲームにおける立ち絵の時間性

概要

  • 立ち絵
    • 直線的時間
  • 一枚絵
    • 円環的時間

立ち絵で進行するシーンは、現実に近い時間が流れている、とプレイヤーに感じさせる。ポーズや表情が瞬時に変わるなど、デフォルメされた時間ではあるが、立ち絵が動き続けることで、時間が流れる感覚を与えるのだ。

対して、一枚絵で進行するシーンに入ると、時間が減速したように、プレイヤーに感じさせる。絵が止まっているから、時間も止まっているように感じるので、原理としては単純だ。


 ノベルゲームの時間性については、すでに上記エントリで検討している。しかし、立ち絵と一枚絵の違いが主題であった。ここでは、立ち絵の時間性に注目したい。

リミテッドアニメのリミットとしての立ち絵

 立ち絵で進行するシーンは、一枚絵に比べれば「現実に近い時間」だろうが、それはあくまでも「デフォルメされた時間」でもある。そのデフォルメの仕方を「リミテッドアニメ*1のリミット」と位置づけたい。

 もちろん、ノベルゲームの立ち絵は、アニメのようになめらかには動かない。だが、イラストやマンガと違って、実際に動くとも言える。そこで、立ち絵の身体には、全く運動性がないかと言えば、少しはあるだろう。

 そして、ノベルゲームにはまた別の運動性・時間性がある。それは、マルチメディアの各メディアが、バラバラの時間で動くという、離接的(異なる流れを離したり接続したりする)な運動性だ。

 具体的には、立ち絵の動き、テクスト、BGM、ボイス、それぞれが別個の時間で表示・発音される、ということを指す。さらに、立ち絵とウィンドウの顔アイコンで表情が異なっている、といった現象を加えることもできるだろう。

 この時間性・運動性は、たとえば、疑似同期的だと言い換えられるかもしれない。ここでの「疑似同期」というのは、テレビの放送が完全に同期した時間なのに対して、ネットの通信は擬似的な同期でしかない、というくらいの意味だ。

情緒の平板化と多面化

 それでは、そのような時間性を立ち絵が持つことで、どのような表現が可能になるのか。

 ひとつには、情緒の平板化がある。どういうことかというと、立ち絵の運動は、リミテッドアニメよりも、さらにデフォルメがきつい。また、これは少し別の表現だが、動画・映像の早送りでは、情緒も情景も飛んでしまう、という感覚は分かってもらえるだろう。

 したがって、立ち絵の瞬間的な変化は、情緒表現を平板にする。さらに付け加えれば、書き割り的な背景との組み合わせは、情景表現を平板にする。平板というのは、ネットの顔文字のような表現が平板だという感覚だ。

 この「平板」という語は悪い意味に限らない。もし逆に、実写の時間で同じことをしたら、間が抜けてしまうようなやり取りができる。具体的に言うと、掛け合い漫才的なやり取りだ。

 それは、情緒的ではなく、記号的・無機的ではある。だが、ミニマルな音楽に没入するような、独特の体験を可能にする。それに、情緒が貧しいままかといえば、一枚絵のシーンで情感を描くために、全体ではバランスが取れているのだ。

 もうひとつには、情緒の多面化がある。平板なのに多面的なのか、と思うかもしれない。立ち絵のみを見れば、たしかに平板だ。しかし、前述のようにマルチメディアであるため、文章や音楽や声と、立ち絵との間に解離が生じる。

 具体的に言うとたとえば、立ち絵は笑っているが、声は怒っており、文章や音楽ではまた違う感情を表現している、という状況が起こる。そのズレが、アイロニカルな表現となるので、そのことも掛け合い漫才的なやり取りに向く。

付論:シニカルな主人公を描きやすい環境

 視点を変えて、他メディアと比較してみよう。

 かつての巨大ロボットものアニメでは、熱血的な主人公が多かった。しかし、アニメが、美少女ゲームライトノベルを原作にするようになり、弱体化するようになった。弱体化というのは、主体的でなくなる、受動的になるという意味だ。

 弱体化している状況の中でも、そこそこ描き分けはされている。たとえば、弱気な主人公と、シニカルな主人公では違う。ただし、そのどちらも、大きく分ければ受動型の主人公に分類できるだろう。

 そして、シニカルな主人公といっても、ラノベの主人公と美少女ゲームの主人公では、私の見方では微妙に異なる。まず、ラノベは、文章媒体の性質から、他者と切り離された状態で、自意識が肥大しやすい。だから、ラノベの主人公のシニカルさは、観念的なシニカルさだ。

 一方、美少女ゲームの主人公は、これまで述べてきたようなノベルゲーム媒体の性質によって、情緒が平板化・多面化する環境に置かれている。平板なやり取りの中で、自意識が浸食されていく。だからむしろ、美少女ゲームの主人公のシニカルさは、関係的なシニカルさだ。

 付け加えて言うと、美少女ゲームでは、常に立ち絵が表示されるため、画面が遊ばないようにしたいだろう。すると、主人公の内面を直接描写するより、ヒロインとの掛け合いから、間接的に描写する方が向いている。

*1:1秒あたりの動画の枚数が制限されたアニメ

なぜアニメの男主人公は弱体化するのか

概要

 なぜ、アニメの男主人公は、主体的でなかったり、受動的だったりと、弱体化していくのか。

 結論から言うと、熱血主人公の巨大ロボットものから、美少女ゲームライトノベルの原作物へと、アニメがシフトしたからだ。

 だがそれでは、美少女ゲームの男主人公が、すでに弱体化していたのはなぜか。以下、考察していこう。

なぜ美少女ゲームの男主人公は弱体化するのか

 そもそも、ラブコメブームの時代から、男主人公の弱体化は進んでいた。そこに、戦闘美少女やセカイ系が加わり、女尊男卑の風潮がオタク・コンテンツに広まっていく。

 そこでは、巨大ロボットものの熱血的主人公よりも、受身な主人公の方が好まれる。どのメディアでも、美少女コンテンツは、美少女が真の主役だ。

 そのため、主人公は主人公でも、英雄的な主人公ではなく、狂言回し的な主人公になりやすいのだ。

 しかしさらに、美少女ゲームの時代に入ると、そこにノベルゲーム固有の構造が影響してくる。ひとつは、選択分岐とマルチエンディングだ。

 マルチエンディング型の美少女ゲームでは多くの場合、各エンディングで主人公が各ヒロインと結ばれる。そこで、各ヒロインのカラーと調和させようとすると、自然と主人公が無彩色=無個性になっていく。

 ここがラブコメの時代と少し事情が違う。というのも、マンガやアニメなど一本道で進むシナリオの場合、結ばれるヒロインは1人であり、彼女のカラーと補色=正反対の性格になるような設定にもできるからだ。

 また、主人公の行動はプレイヤーが選択するため、主人公の性格が「こういう場面では、こういう風に行動する」と決まっているようだと、整合性を取って構成しにくい。

 もうひとつは、たとえばアニメと異なり、ノベルゲームは主人公が画面に映らない。基本的に主人公の一人称視点に固定されるため、髪が長くて目が隠れているような、透明=匿名的な存在になっていく。

 もし、逆に存在感が強い主人公にしてしまうと、プレイヤーがヒロインを見る視界が不良になる。たとえると、色メガネが掛かるような感じだ。

 さらにもうひとつ、一般的にアニメよりノベルゲームの方が視聴時間が長い。したがって、アクの強い主人公だと、振り回されて疲れてしまう。そこで、落ち着いた色になる。

 そのようにして、美少女ゲームにおいては、より無味無臭の存在になっていく。そして、近年のアニメは、オリジナルを製作するよりも、美少女ゲームライトノベルを原作にする方が多い。だから、アニメでも男が弱体化するのだ。

 ちなみに、ライトノベルの主人公は、美少女ゲームよりかは、シニカルになる傾向が見られる。しかし、ヒロインに比べれば無個性、という大きな枠組では変わらない。

 だがここでさらに、原作からの移植にあたって、アニメ固有の問題が出てくる。ちょうど、ここまで述べてきた条件が、ひっくり返った形だ。

 ひとつは、ノベルゲームのようには、プレイヤーが介入して選択肢を選べないこと。もうひとつは、主人公が画面内に映るため、否が応でも視聴者の意識に上ること。さらにひとつは、尺が短くなるため、主人公が能動的でないと、物足りないことがある。

 そのため、アニメにおいては、原作よりさらに弱体化している部分が浮き上がってしまう。

 その事情は制作側も承知しているだろうが、原作への忠実さをユーザから求められているため、仕様がない部分もある。

付論:なぜ『School Days』の伊藤誠は、叩かれるのか

 上記に加えて、少し特殊な事情を持つ作品に、アニメ化されたエロゲ『School Days』がある。ネットにおいては、同作の主人公・伊藤誠の不誠実さを、ユーザが非難する場面が目立つ。

 だが、誠の性格設定は、かなり意図的なものだろう。というのは、ヒロインの桂言葉西園寺世界、そのどちらを選ぶのかが、主題的に扱われているからだ。

 誠が流されやすい性格だから、どちらのヒロインに傾くかが、ゲーム的な焦点になる。じっさい、言葉と世界と、どちらの好感度が高いか、専用のゲージが表示されるくらいだ。

 しかも、同作ではアニメーションを取り入れているため、誠が画面に映っており、プレイヤーが意識せざるをえない。

 だから、原作の時点で、誠はすでに嫌われていた。少なくとも、「いやっほーぅ! 伊藤最高ー!」などという声は、あまり聞かれなかった。

 だが、誠が叩かれたことは、失敗ではないと思う。ある程度ヒロインに共感しているから叩く面もあるだろう。言葉か世界に深く思い入れてしまうように、巧妙に作られている。

 そもそも、誠の優柔不断は、ヤンデレの強固な意志と対になっている。誠が流されるほど、ヒロインがヤンデレになっていく。

 もし、誠が誠実なのにヤンデレになっていたら、単にヒロインが悪いということになり、ヒロインに共感できなくなってしまう。つまり、「誠死ね」抜きに「言葉様」の人気はない。

 じつは、誠はハーレムの王様のように見えるが、視聴者に対するスケープゴート、叩かれ役でもあるのだ。その構図が極まった結果が、あの「Nice boat」なのである。

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