なぜ日本人は不幸なのか

概要

ド〜する!? 世代間格差
ド〜する!? 若者の未来
ド〜なる!? 日本の将来


なぜ、現代の日本人は不幸なのか。それは、個人の幸福を犠牲にする形で、組織が成功するシステムになっているから、だと私は考える。テレビ番組「朝まで生テレビ」の討論を参考にしつつ、以下で詳細を述べよう。

希望のない自殺大国・日本

希望の国のエクソダス (文春文庫)

希望の国のエクソダス (文春文庫)

この国には何でもある。

だが、希望だけがない。


最初に、日本人、特に若者が不幸だ、という原因を見てみよう。番組では英大学・研究者による「幸福度」の世界ランキングが示された。それによると、日本は90位(178ヶ国中)。中国や韓国より低い。

ただし、この調査については、幸福の基準は主観的なものだし、データの取り方でまた順位が変動するから、別の見方の余地もあるだろう。しかし、より客観的な指標である自殺率のランキングも示されている。

自殺率の世界ランキングで、日本は世界6位(103ヶ国中)。これに加えて、12年連続で国内の自殺者が3万人を越えており、20代・30代の死因トップは自殺であるという。

さらに、00年代に入ってから、変死者が数万人単位で増えている。そこには、孤独死のような社会的困窮による死も含まれるのではないか。だとしたら、不幸な死はさらに増えることになる。

そこで、「幸福の基準は人それぞれだから、一概に不幸とはいえない」という、相対主義の立場には立たない。

少なくとも、世界的に見て自殺者が多い、というのはデータで示された事実だ。そして、自殺者が不幸である、という前提は多くが認めるところだろう。それならば、自殺するような不幸な人間が、少なくとも先進諸国に比べて多い、ということが言えるのだ。

老人は強い、若者は弱い

世代間格差ってなんだ (PHP新書 678)

世代間格差ってなんだ (PHP新書 678)


それでは、不幸な日本人が多いのはなぜか。番組内では様々な論点が示されたが、ここでその1つ1つを追うことはしない。

議論のひとつの軸になったのは、世代間格差の問題だ。それが具体的には、年金問題として語られた。少子高齢化に対応するため、世代間の賦課方式から、世代ごとの積立方式に変更すべきだ、といった論調だ。

ただ、世代間格差の詳細については、出演者である山野車輪氏の『若者奴隷時代』や、高橋亮平氏城繁幸氏の『世代間格差ってなんだ』に譲ろう。

私としては、現代日本における社会格差の根本は、組織と個人のパワーバランスの偏りにあり、世代間格差というのは、その個人へのしわ寄せが、少数派の若年層へ来たものだと考える。次で詳しく展開しよう。

組織は強い、個人は弱い

日本では、組織が強く、個人は弱い。これは、単なる比喩ではない。事実として、ここ最近の労働分配率の低さとなって現れている。

具体的に言うと、2001〜2005年度にかけて、雇用者報酬が約8兆5千億円減少し、逆に企業の利益は約10兆円増えている。同時に、株主への配当金や大企業の役員報酬も増えた。

つまり、今世紀初頭に入って、非正規労働者が増え、労働者の給料が下がった。そのことで、個人から組織へと、資本が移動していたのだ。番組でも、最低賃金生活保護の給付額を下回ったことが示されていた。

なぜ、非正規雇用への切り替えが進んだのか。円高を受け、製造業が海外にシフトしたため、海外の安い労働力と競争することになったためだ。そもそも、製造業の雇用者数が、1992年から2002年の十年で、約350万人も減少している。

個人が弱いといっても、企業組織から恩恵を受けられる、株主や経営者は別だ。また、一部の有名人や専門家も別だ。しかし、組織の外部に放り出された非正規労働者の大多数は不幸だろう。

日本における幸福の基準のひとつに、どこの組織にいるか、組織の外にいるか、というのはある。もちろん、それが全てではないが、無視できないほど大きい枠組ではあるだろう。

どの組織のどの階層に所属するかで、幸福かどうかが決まる部分が大きい。そして、世間一般で言うところの、幸福になる努力とは、良い組織に所属するための努力である。

じっさい、番組の最後で発表されたアンケートでは、40代のバブル世代は幸福、30代のロスジェネ世代は不幸、と答えた割合が全体の中で多かった。

自殺問題と貧困問題

自殺の問題のうち、ある程度は貧困の問題だ。貧困というのはたとえば、厚生労働省が行なった2007年の調査で、全国民中に占める低所得者の割合を示す「相対的貧困率」が15.7%。OECD経済協力開発機構)加盟30国中では4位になっている。

だが視点を変えると、貧困に還元できる問題は社会的に解決できる。たとえば、スウェーデンでは、失業率が増えても、自殺者は減った。失業を前提にした福祉制度が用意されているからだ。

しかし、日本はいまだに終身雇用を前提にしているため、失職時のリスクが大きい。すると、いやがおうでも組織にしがみつかざるを得ず、ストレスは大きくなる。これも不幸の原因だ。

要するに、日本の経済市場が変化しているのに、政治制度は高度成長時代のモデルから変革できていない。そして、そのしわ寄せが、特に若年層に集中している。

大組織には公的資金、個人には自己責任

そのように改善が遅れる要因には、もちろん旧来の利権体質もあるだろうし、少子高齢化による逆ピラミッドの人口構成もあるだろう。

だがそれだけではなく、個人よりも組織が大事だという日本的な思想が、制度改革を阻んでいるのではないか、と私は考えている。

日本における個人同士の関係はきわめて薄い。有名人や専門家は別として、普通は所属している組織同士の関係に置き換わる。つまり、Aさんとの関係ではなく、「B社のAさん」というように、組織の代理との関係に置き換わる。

そうしたことが、組織を重視し、個人を軽視する思想の土壌を形成している。たとえば、大組織が経営破綻しても、公的資金が注入される一方で、「自己責任」といって個人は救済されない。

そうした状況に対して、カウンターが起こらない。むしろ、ネットを見ても分かるように、感情的に「出る杭を叩く」ために、叩きやすい個人を叩く方が多いだろう。

ここで、いや、個人も救済することがあるではないか、というかもしれない。しかし、組織とは言わなくても特定の層のみ、救済する仕組みが多い。たとえば、公共事業で特定の産業が潤うとか、特定の業種に所得保障するとか。

だがそれでは、特定の層に当てはまらない個人が、救済されない。個人の所得を基準にした保障が必要だろう。そうなっていないのは、利害団体に所属しない個人を保障しても、利権が生じないからだ。

要するに、多くの若者は利権が生じる層に所属していない。そのため、負担が集中するが権利は得られない、ということだ。

富める者はさらに富み、貧しき者はさらに貧しく

そのように、組織や場所や空気を個人よりも重視する日本の風土がもともとあった。そこに、経済のグローバル化という、現代的な地盤の大変化が加わる。

具体的に何かというと、企業が海外に移転できるために、法人税を上げにくい。すると、消費税を上げようという話になってくる。これも、組織が強く、個人が弱い例だ。

あるいはたとえば、サービス残業というのも、個人が組織に対してサービスさせられているのだから、組織が強く、個人が弱い例だ。

前述のように、雇用者報酬が減っている上に、サービス残業で労働時間が伸びていく。だから、組織は成功するかもしれないが、その引き替えに個人は不幸になる。

それなら、個人のままで起業する手はないだろうか。しかし、たとえば地方の小売りなら、郊外型・大規模ショッピングセンターが席巻して、駅前の個人商店街はシャッター街になる、という現実がある。これも組織が強く、個人が弱い例だ。

これらのことから、富める者はさらに富み、貧しき者はさらに貧しく、というマタイ効果*1に歯止めを掛ける力が社会にない。そして、格差拡大は止まらない。

組織が個人に優先する構造

労働環境の悪化問題に関しては、政府・行政の規制が弱い、というのがまずあるが、行政以外の組織によるオルタナティブな運動も弱くなった。

というのはたとえば、労働組合の組織率が低下して、2000年代に入って2割を切っている。組合の弱体化の要因は色々あるが、非正規雇用の増加というのはひとつある。なぜなら、組織を転々とする非正規雇用者にとって、企業別の組合に加入する動機がないからだ。

この対策として海外を見習い、企業別ではなく産業別で組合を作る、という手はある。じっさい、そうしたユニオン・コミュニティも出てきている。だがそもそも、なぜ組合が企業別になっているかといえば、前述のように転職を想定していないからだ。

そして、転職が想定されないのは、転職すること自体の人事的評価が低いことと、特定の企業だけで通用する人材になること(内部労働市場化)があるからだ。結局どこまでいっても、組織が個人に優先する構造が、日本には見出せる。

それでも、かつての高度経済成長の頃は、右肩上がりの経済成長の期待があった。会社に奉公すれば、やがて報われるのだ、という期待があった。しかし今では、サービス残業のような奉仕を求めて、一方ではリストラするのだから、働く動機も低下するだろう。

日本人のいない日本の未来

これは大雑把な印象論になってしまうが、90年代に比べて、00年代は表面上は安穏としている。だが、格差は広がっており、問題は何も解決していないし、閉塞感は全くぬぐえない。それはつまり、次のようなことだと、私は思う。

90年代では、時代が変化している、それに対応して何か変えなければならない、という危機感や恐怖があった。しかしそれが00年代に入ると、個人の力では組織や社会システムを変えることはできない、という無力感や諦念に変わったのではないだろうか。

さて、そのような状況に対して、経済的な国際競争力のためには、弱者を切り捨てて構わない、という考え方もあるだろう。一方で私は、少しは個人を保護する必要があるだろうと考える。そう考えるのには、若者が弱者になっているために、国の運営の基盤が揺らがされていることを背景にしている。

というのも、日本の少子化が止まらない。総務省の発表では、15歳未満の子供の数が、2010年時点で、29年連続の減少となった。また、算出基準によって数字が変化するが、2050年には、日本の人口が1億人を切り、2100年には5千万人を切る、という見通しもある。

しかも、このことが冒頭で述べた世代間格差を再生産してしまう。どういうことかというと、まず格差があるため、子供が産みにくい状況がある。そのため子供の数が減った。すると、少数派である若者の負担が重くなる。そのことで、ますます子供は減る……というサイクルだ。

ただ、日本の政府は、それを外国からの移民で解決してしまうかもしれない。そして、日本の組織は日本に残るだろうが、日本人という民族は日本に残らないのかもしれない。「国破れて山河あり」をもじれば、「人滅びて組織あり」である。

最後に、資本主義とは、資本を自己増殖させる運動である。資本主義にとって、経済主体は特定の民族に依存しない。したがって、グローバル資本主義が、日本から日本人をリストラしても、何もおかしくない。

関連書籍

格差社会―何が問題なのか (岩波新書)

格差社会―何が問題なのか (岩波新書)

格差社会論はウソである

格差社会論はウソである

格差の壁をぶっ壊す! (宝島社新書 311)

格差の壁をぶっ壊す! (宝島社新書 311)

*1:社会学者のマートンが、新約聖書「マタイによる福音書」から名付けたもの