映画『恐怖』 ――ポストJホラーの開拓地を目指す実験作

概要

恐怖 [DVD]

恐怖 [DVD]

情報
紹介

お母さん、私の脳味噌をどうするの?

『感染』、『予言』、『輪廻』、『叫』、『怪談』に続く、Jホラーシアター最終章!
禁断の領域に触れた美しき姉妹の運命を描く、前代見門の<脳髄狂気ホラー>誕生!
シムソンズ』で映画デビューして以来、TVドラマやCMで着実に女優としてのキャリアを積む藤井美菜が美人姉妹の妹を熱演。
衝撃的な運命をたどる姉のみゆきは、『パッチギ LOVE & PEACE』のヒロイン、中村ゆりが演じている。

物語(あらすじ)

注意:以下、ネタバレあり)

戦前の16mmフィルムの中に出現した不思議な白い光を目撃した姉妹、みゆきとかおり。17年後、死への誘惑に取り付かれてしまった姉、みゆきは失踪する。姉の行方を追うかおりは、禁断の脳実験を繰り返す母親、悦子と再会。美しき姉妹と狂気の母親を待ち受けていたのは、彼女たちが生きる現実そのものを揺るがす異常な惨劇だった・・・。

解説

ポストJホラーの開拓地を目指す実験作

 『Jホラーシアター』シリーズ・第5弾(ラスト)。本作の監督・脚本を務めた高橋洋は、『リング』の脚本も手がけている。「Jホラーの到達点」という触れこみだが、むしろ「ポストJホラーの出発点」だと思う。一言で言うと、興行を期待していない自覚的な実験作だ。

 とはいえ、妹のかおりを演じる藤井美菜が、美形で印象的だ。また、姉のみゆきを演じる中村ゆりは、前半と後半で別人のように印象が変わる。そして、ふたりの母役の片平なぎさは、冷たい女医師を好演していた。

 本作は巷であまり評価されず、埋もれた作品になっている。その主な原因は、とにかく物語が分かりにくいことだろう。たとえば、登場人物たちが何に恐怖しているのか、といった基本的な部分すら分かりにくい。

 たとえば、女性の幽霊が叫ぶエスタブリッシュメント・ショット(キメのショット)がある。類似シーンがある『叫』の場合、それまでに感情の高まりがあり、叫びがカタルシスになっていた。

 ところが、『恐怖』の場合、幽霊が叫ぶ感情が伝わってこない。『叫』と同じ芦澤明子の撮影だから、技術的な問題でもないだろう。単純に話の筋がつかみにくいため、登場人物に感情移入しにくいのだ。しかしその一方で、脚本自体は精密に構築されている。

序盤のストーリー解説

 そこで、ストーリーを解説しよう。本作の物語は、SF的な平行世界を導入すると、一気に見通しが良くなる。逆に言うと、それに気付かないと、どの場面も全く意味が分からない。序盤だけ具体的に見ていく。

 喪服姿の太田かおり(藤井美菜)が、太田みゆき(中村ゆり)の部屋にいる、冒頭のシーン。机上のデジタル時計には「6/23 火 6:45」とある。かおりは「父さんが死んだ日」だと言う。「姉さんに電話しないと」とも言う。

 間宮悦子*1片平なぎさ)が持っていたカードと、本島和之が貼った探し人の貼り紙から、太田みゆきは26歳の「多摩医療大学病院 脳神経外科 研修医師」だと分かる。

 聞き込みに来た刑事は「(PCの履歴を)削除したのは、みゆきさんと連絡がつかなくなった当日、6月23日の朝です」と告げた。真っ暗なみゆきの部屋で、ふたりの人影を見たと証言した目撃者がいる。

 時計に「7/1 水 16:46」とある後で、かおりが目覚めて、時計には「7/1 水 7:04」とある。そして、ノートPCには「間宮脳神経外科クリニック」のWebページが表示されている。

複数の現実がもたらす恐怖

 時計が逆戻りしていることをどう見るか。もちろん、時計が故障したり、誰かが時計を調節したのかもしれない。しかし、ラストシーンから逆算すると、やはり時間自体が逆戻りしていると解釈したい。

 平行世界を導入すると、意味が分かる伏線が出てくる。たとえば、刑事に証言した目撃者が見たのは、みゆきではなく、後のシーンに出てきたかおりと本島なのではなかろうか。また、かおりが電話を受けてショックを受ける(画面が歪む)のも、やはり時空自体が混線しているのではないか。

 そしてまた、様々なモチーフの配置の意味も見えてくる。本作におけるあの世とは平行世界のこと。脳の手術で、シルビウス裂によるリミッターを外すと、平行世界を行き来できるようになる。不自然な白い光は、平行世界とのリンクを示す徴候だ。

 それまでの展開と矛盾するような結末が唐突に感じられるが、伏線は張り巡らされているのだ。単なる夢オチではなく、どれも現実だった。そして、本作の「恐怖」とは、現実が崩壊してしまう、ということだったのだ。

 ふつう、ホラー映画は2回目には怖くなくなるが、本作は2回目のほうが怖かった。これは希有なことだ。だがやはり、もっと分かりやすく作ってくれればいいのに、と素朴に思わなくもない。

 たとえば、ジョン・カーペンター『マウス・オブ・マッドネス』は、現実と虚構という似た題材を扱いながら、もっと分かりやすいし、結末のカタルシスもある。あるいは、デヴィッド・リンチマルホランド・ドライブ』のように、別の視座で見ると一本の筋が浮き上がる体験。そうしたものが欲しい。

 また、主人公・かおりが終始、傍観者的なポジションだった。最悪死んでも平行世界でやり直せるのだから、危機に遭うことで緊張感を出してもよかった。本当に描きたいのが深層=真相の平行世界だとしても、目くらましのためのドラマを表層に配置してバチは当たるまい。

 ただ、分かりやすい作品ばかり求められる商業市場の中で、新境地を開拓しようとする本作の志は高く買いたい。ヒットメーカの高橋&一瀬コンビであれば、過去のヒット作の模倣をすれば、そこそこ受ける作品は楽に作れることだろう。そうではなく、Jホラー全体の未来を考えて自覚的にこれを出したのだ*2

過去の闇、未来の光

 監督インタビューを見ると、脚本ができあがったときに一瀬プロデューサから「まず、10人中7人は、夢オチと取るよ」と言われたらしい。しかし、高橋監督は「夢オチではないんですよね」と明言している。

 「胡蝶の夢」のように、どちらかが夢でどちらかが現実ということではなく、「複数の現実が共存している」のだという。これ自体は、SFやファンタジーによくあるパラレルワールドだ。リミッターを外すと、外部の現実が認識できる、というのもある。とくにアーサー・マッケン『パンの大神』に、大きな影響を受けているようだ。

 しかし、それをいま映画にする意味は何だろうか。インタビューで監督は、アウシュビッツからの生還者にとって、平和な生活が現実と思えないときがあるという話や、自身が子供の頃に交通事故に遭いそうになり、夢でその不安に襲われる感覚があるという話を語っている。

 普通なら「何回も妄想に跳んで、現実に立ち返っている」と思うだろうが、監督は「どっちも本当なんじゃないかという感覚」を持っている。それが「なかなか、たぶん、一番伝わりにくいこと」なのだと言う。

 ここからは私の解釈だが、それは「偶有性 contingency」の感覚ではないかと考える。「必然」でも「不可能」でもなく、偶然性を有しているという意味だ。もっと分かりやすくいうと、ノベルゲームの分岐とマルチエンディングのような感じだ。

 『叫』の幽霊が過去の象徴なのに対して、『恐怖』の幽霊は複数の現実の象徴になっている。複数の現実というのは、「可能性」や「未来」と言い換えてもいいかもしれない。これはホラーよりSFと相性が良い題材で、本作が分かりにくい一因になっているかもしれない。

 一般的に、ホラーでは、過去の事件やそれに対する怨念が、幽霊が現れる母体になる。『リング』は貞子の母の公開実験だし、『呪怨』は佐伯家の殺人事件だ。斬新な幽霊像を提示した『叫』でも、やはり「過去=幽霊」のラインに沿っている。ところが、本作では「幽霊=別の現実」になっている。

 つまり、本作で恐怖の対象にしているのは、過去の闇ではなく、未来の光なのである。そのことだけを取っても、非常に希有な作品だ。

 この作品は、後に生きるのではないかと思う。たとえば、『女優霊』*3という作品は、それ自体は『リング』や『呪怨』のようなメジャーな知名度はなくても、後のJホラーの基礎を作った。同様に『恐怖』は、ポストJホラーという、未来の可能性を切り開くかもしれない。

関連作品

恐怖 (角川ホラー文庫)

恐怖 (角川ホラー文庫)

映画の魔

映画の魔

<ホラー番長シリーズ> ソドムの市 [DVD]

<ホラー番長シリーズ> ソドムの市 [DVD]

*1:エンドロールの記述から、太田悦子ではない

*2:インタビューで、「カルト」性を自覚していることがうかがえる

*3:この作品の脚本も高橋洋が手がけている