「とかちつくちて」って何?

キャラクター

 ええとそれで何が言いたいかと申しますと、このアイドルマスター現象もまたミク現象と同じく、伊藤剛キャラ理論の強力な例証になってくれるんじゃないか、と思うのですよ。

ここで大塚は「まんが・アニメ的キャラクタは本来「内面」「身体」を描くには不向きであるにもかかわらず、ポスト手塚状況ではその無理を通そうとする特異なリアリズムが出現した」と言っているわけだ。それに対して伊藤理論というのは、「そうではなく、かわいらしく記号的に表現された抽象的なキャラにこそ、人は過剰な「内面」「肉体」を読み込んでいくのだ」という仮説であった。

 ミクやアイマスキャラたちは作りこまれていないからこそ、ユーザーたちにとっていじりがいがある。抽象的であるからこそ逆に、複雑で深いものをその背後に仮想するよう、人々に促すようにできている。つまりはそういうことではないのか。

そういうことではないと思う。大塚・伊藤の両説の対比は興味深いが、ここでは別の道を行きたい。

抽象的な記号は情報が欠落しているので、過剰な内面なり肉体を補完する、というロジックは分かりやすいが、上記の説明で納得が行かないのは、アイマスにおける「とかちつくちて」の存在である*1。また、これはアイマスだけの現象ではなく、東方における「魔理沙は大変なものを盗んでいきました」も似た位置(ヘゲモニー)にあると思う。

素朴な印象として、「とかちつくちて」に「人は過剰な「内面」「肉体」を読み込んで」いるから、動画サイトで大流行したとは感じない。むしろ、徹底して外面性と記号性の表面に留まっていると感じる。表層の背後に深層を見るというより、(様々な二次創作で)表層と表層が結合しているというのが実感だ。

だがそれでは、全ては表層の記号の戯れ(シミュラークル)に過ぎないというような、かつてのいわゆる記号論的な主張なのか。あるいは、データーベースからの組み合わせと神経的主体に還元する、東浩紀のような主張なのか。ここでの結論はいずれでもない。だいたい、「とかちつくちて」のような流行物は「出会い」であって、何回も繰り返し学習・訓練してから条件反射するようになるのでは、流行させるほど広まらない。

そうではなくて、見た瞬間、何回も繰り返し見たくなるような、何かがあるのだ。それは、普通に使われる意味での「萌え要素」ではない(「燃え要素」と表現しても依然としてズレがある)。「メイド」だとか「ツンデレ」だとか、既に流通している類型的な枠組み、「お約束」ではない。それではいったい何なのか。

意味のない記号

とかちつくちて」は、享楽の核である。アイマスの中にあって、アイマス以上の存在感を持つ、意味のない記号(声)である。「とかち」に魅了された者は、繰り返し動画を再生することによって、記号の背後の複雑な内面なりを想像するのではなく、むしろ記号自体と同一化しようとする。どういうことか。

これは、念仏を一心不乱に唱える者が、別に複雑な仏教観なりを深く読み取るわけではなく、むしろ無の境地を目指して唱えているような例を考えると分かる。もちろん、アイマスは宗教ではなく消費するための商品なので、高尚で神秘的な体験ではない(パロディ化される)が、無我夢中になるという共通点はある。

なぜ「とかちつくちて」にそんな力が宿るのか。別の何かが「とかち」のポジションを占めることもできただろう。どんなものでも欲動の対象の座につくことができるからだ。だからといって、いったんロックインしたら容易に変えられない。それが心を奪う「出会い」だ。また、「とかち」だけ単体で示されてもダメだろう。「とかち」は、アイマスという木になった(生命の)実なのである。

まとめると、記号への同一化は、背後の複雑な内面なりを読み取る、記号の解釈ではない。複雑化する場合、むしろ記号自体が複雑化していくだろう。これは他のアイマスMADとの関係や、初音ミクの裾野の広がり方を見れば分かる。だから「とかちつくちて」は、アイマス的物語を決定する、アイマス的自己理解を、横断し転倒する。「とかち」は、背後に隠された意味を示すというより、そうした解釈を拒む、萌え/燃えの固い核(ハードコア)として存在するのだ。

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*1:それ以外にもアイマスMADには特定のフレーズを繰り返すものが多い