電子マネーと萌え

電子マネー

貨幣の価値とは何なのか問い直してみましょう。それは実体としての紙幣とイコールではありません。昔は金銀だったのが、それとの兌換を保証する券に移行し、やがて不兌換になり、いつの間にか、電磁気パターンしか物理的な実体がない電子マネーが登場するに至りました。


貨幣の価値というのは、商品の交換に関する人間の約束事です。(資本主義)社会では強大な力を持っていますが、例えば無人島に行けば単なる紙切れに帰してしまいます。逆に言うと貨幣市場というのは、単なる紙切れに魔法が掛かる場所なのです。


資本主義社会においては金が神ですが、紙を神に変えるこの魔法を物象化と言います。ところで、貨幣の価値は約束事、規約に過ぎないと言いましたが、たとえ紙切れであっても必ず物質が必要になります。昔は貝や石が貨幣だったので、この物質は複製が難しく劣化しなければ、基本的に何でもよいわけですが、しかし選ばれている必要はあります。この特定がフェティシズムです。

萌え

萌えとエロの関係が議論になることがよくあります。私の考えとしては、動物的な生殖本能が金銀に相当します。エロとかポルノとかは直接生殖に結びつかないけれど、まだしも金銀に兌換することが可能な位置にあります。しかし、どちらかといえば萌えは不兌換への一線を踏み越えてしまったのではないでしょうか。端的に言うと、二次元は三次元と別次元だということです。


更科修一郎が、「萌えは10歳児のポルノ」などと言って煽るわけですが、確かに何か高尚な文化でもないけれど、少なくとも動物的な本能の世界でもありません。10歳の性ではまだ生殖に結びつかないでしょう。


「萌えは記号化」などともよく言われます。そしてそれがマンネリズムと直結して語られます。しかし、萌えが必然的にマンネリになるわけではなくて、むしろ制作者や制作環境の貧しさが萌えの自由度に甘えていることが多いと私は考えています。どういうことか。

記号と萌え

萌えが記号だという意味を、電子マネーが記号であることと同じ視点で捉えれば、むしろ対象の制限がない、自由と可能性を持つ概念になります。福沢諭吉だけが一万円(札)でないように、メイド服やネコミミ「だけ」が萌えではないのです。


しかし、どんなものでも貨幣になりうるというのは原理論であって、現実には複製を防ぐために、紙幣には細部に至るまで特定の様式で細工が施されています。例えば「透かし」がそうでしょう。可能性が無際限にあるからこそ、かって現実には保守的になるという構造が見られます。


同様に、萌え絵は一般にハンコ絵が多く見られます。しかし、一方で『ひぐらしのなく頃に』のように、個性的な絵でも大ヒットがありえます。323絵とひぐらしを両方同時に視野に収めないと、萌えの可能性が見えてこないのです。