ふたなり・ヤンデレ・ツンデレ・ショタ・百合・やおい等、性的倒錯の構造まとめ

性別を超えた存在としてのふたなり少女

たまごまごごはん - 「アンドロギュノス」と「ふたなり」と「女装少年」の、超えられないカベ。

男性向けの「ふたなり」は、(…)男性に女性器が、ってのはほとんど見ません。

それは、男性に男性器がない表象は、去勢不安として捉えられてしまうからだ。もっと言うと不気味だから流行らない。対して、女性に男性器がある表象は、男女の性の分化を超えた、欠落のない完全な存在として捉えられる。だいたい(全体的に適当な解説なのだが)、後の段でファルスが男性の象徴記号だと自ら述べているだろう。

欠如の記号としてのファルスが全体を代理・表象するというのは、ちょうど貨幣が商品全体を代理・表象するのと同じ構造をしている。商品がそれ自体で使えるモノなのに対して、貨幣は商品と交換できるという共同体の規約がなければ紙切れに過ぎない。

だから、紙幣は実在しても貨幣価値の実体はない*1ように、性行為は実在しても性関係は存在しない。例えば恋人関係は告白の発話で成立する約束の関係だろう。だから浮気や不倫は裏切りなのだ。また親子関係が血縁関係なのに対して、婚姻関係は婚姻届や結婚式によってはじめて成立する。そして、存在しない性関係に基盤を持つ女性も存在しない*2ことになる。ただしここで言う性関係は、生殖を介して家庭まで含める*3ような、広義のものだ。

ふたなりの享楽・ヤンデレの強迫・ツンデレのヒステリー

みさくら先生の「らめぇ」などの「みさくら語」に代表されるように、とにかく快楽におぼれ狂うのが魅力。

しかし、ふたなり(両性具有)少女においては、性関係が存在するかのように捉えられてしまう。すなわち、欠如が欠如している。だから身体的な欲動が横溢した幻想的な光景として描かれるし、「みさくら語」のような壊れた言語は、享楽の空虚な核を示している。

これは「ヤンデレ」とは対照的だ。リンク先の他の考察ではヤンデレに狂気や電波を見ているが、むしろヤンデレの言動は神経症的で強迫的なものだろう。例えば、誰かへの関係に固執するなど、感情は理解・共感しやすい。ふたなりと違って「快楽におぼれ狂う」ケースは少ない。快楽さえ得られれば相手は誰でもいい、というヤンデレキャラはあまり見ないだろう。

ついでに言えば、「ツンデレ」はヒステリー的である。他人から見たときに特に理由がないのに、特定の人物(たいていは物語の主人公)に対して、怒ってばかりいる。要するに「喧嘩する程仲が良い」わけだが、これはヤンデレの執着の方言になっているのだ。やはり相手が誰でもいいツンデレでは人気が出ないだろう。

精神的少女のショタ・肉体的少女のふたなり・仮想的少女の百合

だから、「ふたなり」は「女装少年」を超越するのは難しいんじゃないかな?と思っています。

性器の描写が必要だから一般へ普及しない、という意味ならその通りだろう。しかし、(女装少年を含めた)ショタ・百合・ふたなりは、三つで一揃いになっていて、どれかが他を包含する関係ではないと思う。なぜそう言えるのか。

ショタはベースが少年で精神的に少女であり、ふたなりはベースが少女で肉体的(性器的)に少年だ。百合(レズ)の場合、完全に少女だが、男の視点がない。あるいは、どちらかの少女の視点から相手を欲望する。

男にとっての百合は女にとってのやおいに相当するだろうが、やおいの方が圧倒的に市場規模に占める割合が大きい。これはなぜか。それは、カップリングの欲望が男に薄いためだろう。やおいでは「攻め×受け」という記号が用いられ、組み合わせが重視されるが、百合ではそれほどではない。男は常に自分の視点で欲望するので、他者の享楽を受け入れられない。これは冒頭で述べたファルスによる中心化と関係しているだろう。

*1:だからハイパーインフレでは紙幣は紙屑と化してしまう

*2:これは男性中心主義的な発想だと思われるかもしれないが、単純にそうとは言えない。例えば「ジェンダーは社会的に構築されたもの」と似た意味のことを言っているからだ

*3:親子関係と違うと言ったばかりで、矛盾を感じるかもしれないが、ここでは簡単に親子関係を持つ子が夫婦のかすがいになって家族が成立する、という位のことに捉えよう