機械的身体と意識について

機械論の流行

アルファブロガーたちが立て続けに、機械と意識という大昔からあるテーマについて、ありがちな見解を述べているが、その発端は労相の「産む機械」発言だろうと思うと、ブログの明日は見えない。それはともかく、機械的決定論と自由意志の話題に近いので、簡単に私見を整理する。これもやはりありがちなものである。

世界の奥行

簡単なモデルで喩えると、自然科学が扱う領域は、上図の平面データ、すなわちX軸Y軸で構成される平面における線の位置である。これは基本的に一義的・静的に決定される。さてこの図に対して、Z軸(奥行)を読み込んで、平面図から立体の情報を得ることもできる。Z軸は実在しないとも言えるし、約束事の上では存在するとも言える。同じことである。

意識については、自分は立体でも、他人は平面でしか情報を得られない。他人については物理世界における身体や行動という外面しか分からない。その他人の意識世界を推測するのは、上の平面図を立体に起こすようなことである。もっと実情に近づけて言うと、何枚かの断面図から立体を起こすようなことで、完全な全体像を捉えることはできない。

その原理的な事情を勘案すれば、Z軸は元々実在しないから、人間と機械に差がないとするアニミズムの方にも行けるし、機械とは区別される欲求や精神を持っているというような、Z軸を考える方向にも行ける。しかし、それで謎がすっかり解けてしまうことはない。「言語」という大きな問題があるからだ。

自由意志の項でも述べたが、他者の意識は言語実践の場に現れる。また自己の欲求も、言語に媒介されることで、人間的な欲望になる。食欲は満腹になれば収まるが、性や貨幣への欲望は無際限だろう。しかも多義性が生じる。上図から立体を読み取るとき、凸型の立体だけではなくて凹型の立体にも見える。この非決定性が完全に解決することは原理的にありえない。

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