『思想地図』東浩紀・北田暁大編

概要

NHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日本


『思想地図(vol.1)』は、NHKブックス別館から新創刊された雑誌*1だ。帯に「<知>の最前線」「ゼロ年代のアカデミズム」と書いてあるように、本格派の言論誌である。「性急な処方箋」ではなく「抽象的思考」によって、思想に取り組むという方針なので、かなり読み応えがあるが、人文系や社会学や思想の動向に関心があるなら読んでおきたい。

共同討議「国家・暴力・ナショナリズム」前半

密度が濃く全体を代表している、冒頭の共同討議「国家・暴力・ナショナリズム」を見てみよう。

まず北田暁大氏が、「社会構成主義(社会構築主義)」の議論平面からの離脱という、議論の出発点を提示する。単に国民国家共同幻想性を指摘するのではなく、むしろ幻想に還元できない機能を認識し、現代のリアルな国家論を展開しようという問題提起だ。

白井聡氏は、フォーディズム以後のポスト工業社会では、資本と労働の階級が分断されてしまい、国民不在のナショナリズムが出現した、「国民なきナショナリズム」を指摘する。

中島岳志氏は、「国家は国民のもの」という下から国民主権を求めるナショナリズムが、「国民は国家のもの」という上から統治権力を正統化するナショナリズムに偽装・転換されてしまったので、国民主権を求める「方法としてのナショナリズム」が必要だという。

萱野稔人氏は、暴力が不可視化され、国家をフィクション視するイデオロギーが台頭したので、リアルな暴力の源泉として国家を捉えることで、構成主義的なフィクション=国家論を乗り越えようとする。

共同討議「国家・暴力・ナショナリズム」後半

東浩紀氏が、ルソーの「一般意志」論を提出して、後半の第二部が始まる。ホッブズの場合、自然状態の混沌に秩序をもたらす主権者は「王」で明快だが、ルソーの主権者は「一般意志」と、具体的な人物ではなく、曖昧なところがあるという。これを、中島は右派、萱野は暴力、白井はシンボル、という自らの問題領域に引き寄せて議論が進む。

――人間を単位にすると、必然的にメンバーシップの問題が出てくる。
(『思想地図vol.1』・東の発言)

「メンバーシップ」を問題にしない、人間を単位にしない、社会(概念)の可能性を、東が問いかけることによって、後半の議論がさらに加速し白熱する。会費さえ出せば会議など運営には直接関わらなくても済む「会員制クラブ」の例*2が分かりやすいが、単にサービスを提供する国家像を想定している。

――極端な話、議会制民主主義なんかもうどうでもいいんじゃないか(……)
(同・東)

国民が投票制から疎外される状況は、(例えば大澤真幸によって)すでに指摘されている。しかし東は、疎外から回復しなければならないというのではなく、「もっと効率的な意思集約と決定のプロセス」という次の段階を構想している。これはおそらく、工学化の話と関係がある。

機械的国家観

対談の中では直接触れられていないのだが、つまりこういう話だと理解している。グーグルやアマゾンのサービスというのは、個人が意識するかどうかに全く関係なく、データベースの統計的情報によって、商品なり広告なりを自動的に表示する仕組みになっている。これを政治の意思決定に応用できないか。

たとえば、生活情報を住基カードのようなものに一元化した場合を想定してみよう。すると、どれくらいの所得の世帯は、家計の中でどれくらい医療費を払っているかだとか、そういう情報は調査せずとも、自動的に集計できるようになる。

あるいは、どこの道路や建物をどれくらい利用したか分かれば、計画的な都市設計なり道路建設なりができる。そうしてなるべく人を媒介しないシステムを構築することによって、政治家・官僚の利権による税金のロスを避けられるようになる。

電子投票による直接民主制という構想は以前から出ているのだが、生活の細部に至る多種多様な無意識の投票を可能にするという、さらに一歩先を行くアイディアだ。全ての国民にカードあるいはユビキタスなシステムを普及させれば、原理的に投票率100%になる。

これは、北田が最初に提起した構成主義に対する「共同幻想」から、東が途中で挙げた「一般意志」を経由して、問題系の輪がみごとにつながった形だ。「国民なきナショナリズム」の現状に対して、「方法としてのナショナリズム」が必要だという問題構成ではなく、脱主体的・機械的な国家を考えられる。

ただし、東自身がかつて危惧したように、セキュリティの問題は残るはずだ。そして、セキュリティの動機になる安全/不安というのは、暴力の問題とつながっていく。そのように、各人が提起した問題は、現代社会を思考する上で、有機的に絡み合っているのだ。

幽霊的国民観

私の視点からまた別の補足をしたい。「一般意志」の位置付けが謎だという話があったが、日本(論)の文脈で言うと、「空気」の問題系で読み解けば分かりやすくなる。ただし、話を単純化するために短絡的な読み方をしていることは断っておく。

「KY(空気読め)」という言葉があるように、日本では場の空気が支配する。空気は個人意思の集合体であるはずだが、空気の全体性は単なる部分の総和に収まらない。というのは、各人が明確に意思表明することで、空気が変わってしまう・消えてしまうことがあるからだ。

ひぐらしのなく頃に」というゲームがあって、そこではある閉鎖的な村で特定の一家を村八分にしている。しかし、個々人を問い詰めると、皆が空気に従っていただけだということが判明し、村八分の空気は嘘のように晴れてしまう。

どうしてこのように空気は暴走するかといえば、「美人投票」的な「予期の権力」の側面があるからだろう。共同体の成員の期待は、微妙に異なっており、その誤配が権力を形成する。「ひぐらし」で言えば、村内で有力な一家が、ブラフによって期待の力を吸収していた。

だから、似ている部分があるだろう。もちろん、違いもある。一般意思は単一的で理念的な存在だが、空気は複数的で日常的な存在だ。要するに、空気とは、日本的な八百万の一般意志のことではないか。それを「幽霊」と言い換えてもいい。

人間を単位にしない社会の見方をすれば、90年代からゼロ年代への社会変化というのは、「動物化」とはまた異なる、「幽霊と機械」の対立図式として見られるのではないかと、私は捉えている。

感想

東が仕事のメインを対談にし始めた頃は、たしかに東の指摘は鋭くはあるものの一方的な議論になりがちで、対談相手の話を引き出さない抑圧的な印象があった。しかし、イニシアチブの取り方がしだいに洗練され、今回の議論には、複雑化した局面を一気に打開する躍動感を覚える。

それを支えている北田の活躍も見逃せない。議論の要所で短くも的確な交通整理をしている。こうしてみると、『思想地図』の東−北田は、かつての『批評空間』の柄谷−浅田とどうしても重なって見える。

しかし、批評界におけるポジションを単に継承するだけでは満足せず、より一般に浸透させようという強い動機を感じる。そして、その試みは早くも成功しつつある。一般書店で発売した、そのわずか四日後に、売上好評で増刷するのだという。創刊号にしてすでに、大きな反響があった。

東浩紀は、現代思想サブカルを往復する稀有な批評家だが、この「思想地図」によって、思想方面での新たな道のりを北田暁大と共に切り開いていくだろう。

NHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日本

NHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日本

*1:Amazonでは「単行本」扱い

*2:個人的には、以前ラジオで話したスポーツジムの例が記憶に蘇る。あのユーモラスな話がこのような形で回帰するとは!