『ゼロの使い魔』の精神分析――ツンデレとヒステリ――

主人・視線・ヒステリー

萌え理論Blog - 物語的弱者に転落する主人公たち
後天性無気力症候群 「視線」化する少年主人公と「見られる」美少女ヒロイン

o 積極的に動くのは美少女のヒロイン。
o ヒロインは主人公の少年から「見られる」立場にある。ビジュアルイメージではいつもヒロインが前面に押し出される。
o 主人公の少年はヒロインを一方的に「見る」立場にある。少年の主観や一人称で書かれる。
o 主人公の少年は没個性的。顔や名前すらあいまいであることがある。つまり主人公の少年は「見られない」存在。もはやキャラクターというより「視線」。


主人公の「視線化」とは、例えばエロゲの主人公の髪が長く眼が隠れている、というようなことでしょう。ラノベの表紙が女の子の萌え絵になっているのもそうでしょう。しかし、エロゲでは女の子がメインで男は邪魔だから控えめに描く、といった既存の話とどう違うのでしょうか。ここで、視線とツンデレの関係について考えてみます。主人公の無能化・視線化・ヒロインのヒステリー化は、三幅対をなしているのです。


ツンデレ」は最近の流行だけれども、古典的なカテゴリに当てはめれば、ヒステリーに分類できるでしょう。アスカやハルヒもそうですが、ツンツンしている状態がヒステリックであることが多く、ここにツンデレの「ツン」と「素直クール」の「クール」の違いが見られます。ツンはクールではないのです。そして、ヒステリーのヒロインと主人公のカップルにはどういう力が働いているのでしょうか。ヒステリーヒロインは、無能の主人(公)、さらにその視線を求めています。どういうことか。


ヒステリー化の基盤は象徴的関係にあります。それは表層の属性に還元できない不可視の構造です。これでは何だかよく分からないのでもっと簡単に言うと、「立場」をコミュニケーションの基礎に求めます。例えば『ゼロの使い魔』ですと、(才人に対して)ルイズがヒステリー型でキュルケが倒錯型の反応をします。ルイズは「貴族」や「使い魔」といった立場に非常にこだわりますが、キュルケはそうではなくあけすけに才人を誘惑します。そして、キュルケが欲望(微熱)の赴くままに行動するのに対して、ルイズは「自分の気持ちに嘘をついている」のも特徴です。


ところで「無能」というのは「役立たず」ということではなくてもっと広い意味です。例えば、貴族のルイズに対して才人は平民ですから「無産」です。また、他の女の子に浮気しないという「不能」性もあります。キュルケの誘惑に対しても、更には(惚れ薬による)ルイズ自身の誘惑にも(一応)屈しなかったでしょう。それは、主人公は単に身体が欲しいのではなくて*1、精神的に結ばれたいというプラトニックな欲望です。つまり、王道的に描かれる主人公における無能とは即ち「無垢」でもあるのです。もう少し詳しく言うと、無能と全能は裏表になっています。普段は下着を洗っているがやる時にはやるということです。ルイズも「ゼロ」のルイズなので、実は無能と全能の構造は共通しているのですが、細部は省きましょう。

ツンデレの黄金パターン

さて、(無能の)「主人の視線」はどうなったのでしょうか。ここで、ツンデレの黄金パターンを以下で見てみましょう。特にツン・デレ型よりツン→デレ型に当てはまります。実際の物語ではこのループをらせん状に繰り返します。つまり、デレで完全に結ばれるのではなくて、「今回はちょっと見直した」程度にして、また次の話はツンから始まるという形です。

  1. 主人公の第一印象が悪い(ツン)
  2. それでも主人公のことが気になる
  3. 公共空間で半強制的にカップルを組む
  4. 相手の予期しない一面を垣間見る
  5. 自分の気持ちが揺れていることに気付く
  6. 三者の介在で告白する機会が訪れる
  7. 主人公と結ばれる(デレ)


ツンデレの第一印象が悪いのは「ツン」だから当然ですが、なぜ印象が悪いのに気になるのか。印象が悪いのは、ツンデレが求める特定の条件を満たしていない(「何よ、あんな○○な男」)からです。なのに気になるのは、ツンデレの思考・理想から外れていても、むしろ外れているがゆえに彼女に可能性をもたらしてくれるからです。しかし、自分の想定外のことは分かりようがないので、主人公をツンデレの主観(「あんな男のどこがいいのか」)ではなく、客観的に顕在化する必要があり、公共空間において第三者が介在します。主人公のライバルでもいいですし、ヒロインの(恋の)ライバルでもいいです。具体的には姫君の依頼でワルドに再会するみたいなイベントですね。以上が定型。


もっと簡単に言うと、一般にツンデレは思い込みが激しいので、それを相対化するのが主人公ということです。相対化といってもただ言うのではなくて実感させないとダメなのです。『ゼロの使い魔』で言うと、アニメ版では第六話、原作では第一巻第五章にありますが、土くれのフーケと戦い、「わたしは貴族よ。魔法が使えるものを〜」というあのくだりですね。その後に二人で踊るわけですが、これは単に救ってくれたご褒美ということではありません。それだけではつまらない。踊る相手に足ると認めているところが重要なのです。貴族に固執しているルイズの価値観の微妙な変容*2を伴っているところが、ツンがデレに変わる説得力を増すポイントになります。


そして、「視線」は相対化を体現しています。例えば「冷たい視線を感じる」というのは、自分の主観に対して、相対的な別の思考の存在を、まざまざと感じているわけでしょう。しかし、ツンデレに対する主人公の視線は、相対化しながらも、暖かい・熱い視線なのです。今回は触れませんでしたが、今期の他のアニメでも視線は出てきます。例えば、『ひぐらし』でヒステリー(鬼)化した詩音を相対化したのは、(雛見沢においては)無知で無能な主人公の視線(「俺の知ってる魅音は〜」)でしたし、『つよきす』ではヒロインの演劇に対する主人公の暖かい(しかし「大根」と相対化する)視野が馴れ初めですし、『となグラ』でのお約束のような喧嘩は、ヒロインから見えない視界*3からの発言でいつも収まるのです。


そういうわけで、『ゼロの使い魔』の物語とは「ファーストキスから始まる、二人の恋のヒステリー」に他ならないのでした。

*1:まあ特に原作ではエロ風味があるけれど

*2:表面上の建前は全く変わらないけれど、無意識に変わっており、ワルドの前で才人の名前を呟いてしまう

*3:あまり上手く機能していませんが、カメラも見るための道具です。