主人公論2

前回での主人公の定義は「物語内可能世界の中心人物」だった。
例えば『ドラえもん』の主人公はドラえもんではなくのび太だ。
物語の主人公をゲームのプレイヤーと対比すれば分かりやすい。
あるいは主人公と主役・ヒーローを分けてみるのもいいだろう。


しかし、「物語外可能世界の中心人物」という視点で見れば、
外主人公はドラえもんだろう。これはキャラグッズ等で重要だ。
エロゲのヒロインは、攻略外キャラも含めて、外主人公である。
そこからヒロインへの感情移入を考えるとなにかと面白そうだ。


だがこのブログでは先回りせず、基礎的な部分から積み上げる。
続き。『ドラえもん』の主人公はドラえもんではなかった。
主人公はのび太である。ここの結論が気に食わない人は、
では『新世紀エヴァンゲリオン』の主人公はエヴァだろうか。
少なくともロボットアニメを考えれば、主人公=表題とは限らない。


だが『忍者ハットリ君』『オバケのQ太郎』では能動的なので、
表題キャラクターの主人公度はもっと高くなる。
パーマン』では完全に表題キャラクター=主人公だ。
そして『キテレツ大百科』では、ドラえもん的な構図が反転している。
つまり、無能の主人公と能力を持つエージェント、という図式が逆だ。
ただし、『Dr.スランプ』で、再び微妙なパワーバランスになる。


こうしてみると、表題キャラクター=主人公と
表題キャラクター≠主人公という二つの型が見られる。
大まかに、前者がプレモダンの全能的ヒーローが、
後者はモダンの平均的大衆が、主人公になる。
強引に言えば、近代の主−客二元論に対応しているか。
後者で典型的なのは、『シャーロック・ホームズ
だろう。ドラえもんのび太型の人物関係の元祖か。
ミステリなので答えを書き込めないという事情もある。


そのレベルでは『ドラえもん』も『もののけ姫』も、
同じ構造(主人公が異者に出会う)を持っている。
ちなみに『犬夜叉』の主人公も犬夜叉でなくかごめである。
ここでは過去に行くという選択が大きいと判断した。
ドラえもんが未来から来るのと対照的で、
未来への希望が薄い現代に向いているかもしれない。
うる星・異星→らんま・中国→犬夜叉・過去
と異者の場所が変化しているのも興味深い。


ポストモダンの主人公はどうなるのか。
そこではそもそも、主人公という制度自体が脱臼する。
あずまんが大王』などは、プレイヤーがどのキャラ
も主人公として選べるような並列型の作品である。
ただし、夢に偽のストーリーが与えられているように、
エクスキューズの主人公は存在する。ギャルゲでの
「ヒロインっぽいキャラ」である。シスプリの可憐。


以上をまとめると、

  • 主人公=表題、全能的ヒーロー
  • 主人公≠表題、平均的一般人
  • 主人公は複数、読者が読み込む

これは、そのまま有名な三段階図式、
ツリー・クラインの壷リゾームに対応している。

キャラクターのバラ売り論

エロゲギャルゲでキャラクターごとのバラ売りを提案した。
これは主にユーザの視点とメーカの視点から述べたものだ。
今回はクリエイターの視点からいかがなものか考えてみる。


「エロゲ=消耗品」化に繋がるという批判はある。しかし作品を分解したからといって、
それが必ずしも消耗品化に結びつくとは限らないのだ。どういうことか。
エロゲをプレイするのは成人というお約束なので、社会人が多いだろう。
するとニートでなければ時間がない。更に最近のテキストのボリューム
が多くなった事を受けて、デフォルトでボイススキップで読み飛ばす。
それこそ消耗品化ではないか。高いから「もったいない」といって、
作業的にコンプリートするよりも、一人のキャラクターに絞るのもアリだ。
もちろん、総プレイ時間は変わらず、事態は変わらないことも想定できるし、
単に全てのキャラクターを選んで実質的には変わらないこともありえるが。


作業的コンプリートは萌え力を奪う。なぜなら萌えは可能好きだからだ。
プレイヤーの妄想を書き込める余白がある限りで燃え/萌えが持続する。
もちろんコンプリートしても物語の外部、可能な物語は広がっているが。
確かにバラ売りがキャラクターの使い捨てに繋がる側面も十分にあるが、
逆に言えば、無理やり12人を抱き合わせる状態も不自然だとも言える。
ただし、キャラクターをバラにしてしまうと、プレイヤー側がネット等
でコミュニケーションが取りにくい。これは大きな問題かもしれない。


ただそれでも、エロゲを買う時点で、誰を選ぶかがゲームになるというのは、
持論のメタゲーム論に繋がる。どの同人誌を買うかに、自由度が存在するのと
同じだ。もちろんただし、買い専と呼ばれて、消費に創造性を見出したりは
普通しないのだが、最近では本当に単なる消費化してしまっている。つまり、
即売会で探さずに、同人誌専門店での平積みを買ったりnyで落とすとか。
少し脱線したが、要するにプレイヤーの選択する機会をテキストスキップよりも、
どのキャラクターを攻略するかで発揮させてほしいというのが趣旨である。
オマケをつけてデカイ箱(くじらとか)にするよりも、出会い自体を
選ぶ方が付加価値というか思い入れが深まる気がする。どうだろうか。

ディベートについて

http://d.hatena.ne.jp/REV/20060128#p12
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1128937220/126-156


先にラフに言ってしまえば、エッセイだから論理の道筋はどうでもいいとか、
論文だから修辞的な面は全く必要ないということはなくて、ディベートでも
議論や説得の技術があるだろう。もちろんディベートは一つの方法であって、
ブレインストーミングなど様々な方法がある訳だが、目的はどこにあるかと
言えば、このブログの文脈では、「可能性を顕在化する」ことにあるのだ。
引用部分に対して逆に言えば、ゲーム理論では見落としてしまう事もある。
モデル適用に際して、人間は常に合理的プレイヤーであるとは限らないし、
更に共同知識と相互確認のパラドクスなど、問題点を抱えている所もある。
もちろん、対して相互作用認識論が出てくるが、説明は別の機会にしよう。
とにかく、様々な角度から可能性を照らし出す必要があって、ディベート
その一つであるということ。空しさはどんなジャンルにも潜んでいるだろう。


蛇足だが、

156 :考える名無しさん :2005/11/06(日) 17:38:18
初期ドラえもんは、のび太がとんでもない不幸に見舞われるというので、
未来の世界から助けに来たドラえもんの英雄ぶりと間抜けぶりを
描いていたんだが、
次第に、のび太の駄目さ加減が芸風として高められ、ドラえもん
が圧倒され、巻き込まれてしまうほどののび太の駄目パワーを
描く恐怖漫画へと移行したように思う。ヒーローの足を引っ張るだけの
存在だったのび太が、不気味な失敗のブラックホール的存在感を
強めて行き、終いにはドラえもんの存在を飲み込み食い破るほどの
凶暴性が垣間見られたような気がする。身震いする不気味な漫画だった。
今思い出してたら寒気がしてきた。

ワロス。そんな大げさな。哲板らしい感受性である。

心のノート

「純愛」「家族」礼賛について


パッと見大げさに見えるが、実は結構デカイ話なのだ。なぜか。
一般のオタクは保守的で家父長的だとは思うが、少し述べよう。
『心のノート』は初版で1200万部の隠れたメガヒットである。
この一冊のために文部科学省は年に数億円の予算をつけている。
教科書ではなく補助教材なので、検定を受けていないらしい。


ゲゼルシャフトゲマインシャフトという区別があって、
近代的国家は、家族〜郷土〜国家という同心円状にはない。
契約による単なる利害調整のシステムである。
国家から国民が生まれてくるのではなくて、国民が国家を形成する。
本当はもっと面倒な話だが、ここではそういう話にしておこう。


試験中に着メロ鳴り響く 九州大教員が携帯持ち込む
「不快感を与えただけで犯罪に」--米国新ネット関連法の危うさ - CNET Japan
ますますマスコミが問題を報道し、どんどん生活の細部にまで条例が増えるだろう。
ここでは、その賛否よりも単なる見解、一つの可能性を示しておこう。
何か問題があるたび全ては政府行政が必ず解決しなければならない、となると
膨大な条例ができそうだ。将来的にはひきこもり禁止条例とかニート禁止条例とか
2ちゃんねる禁止条例とか出来てもおかしくない勢いだ。もちろんエロゲ禁止令も。


個人的に国家を家族視するより、冷たい利害調整マシーンと見た方がいい気がする。
と簡単に述べ、あんまり萌えに関係ない地点に来てしまったので、これ位にしよう。

Ajaxが海腹川背らしいね

どうみても「JavaScriptの組み込みクラスである
XMLHttpRequestを利用した非同期通信を利用して、
ウェブブラウザ上で既存の枠組みにとらわれない
インタフェースを実現するための技術」です。
ありがとうございました。


…今更感が漂うが、流行に乗りたい。
あの素晴らしい最速の人みたいに、
「カトゆーなんてまだ見てるの?」
と逆切れできる凄いブログになりたい。
しかしまずJavaScriptをマスター
しなければ。今日参考書が届いた。
何となくFLASHの方が便利そうだけど、
簡素な道具を応用させるのは好きだし。


理屈だけ感を払拭できたらいいな。
ただ「萌え理論」の看板は外さないので、
「萌えとAjax」で何ができるか考える。
いかにも取って付けたような組合せだが、
でも例えばかつて一世を風靡したVNIも、
Ajaxでまた何かできそうな感じがしたり。
JavaScriptはneat(すてきな)言語。
web2.0ニートの共和国だ!
という訳でまずはjsのお勉強。

幻想空間と想像的時間

止まっていた時間

236 名前:名無しさん@そうだドライブへ行こう[sage] 投稿日:2006/01/23(月) 23:06:20 ID:+/6iwpFz0
>>235
ホント悲しいよな、時間の流れって。
中学時代片思いしてた同級生の女の子。その頃の俺は何もできず、何をすればいいのか、それすら分からなかった。

今年の正月明けに実家の近所のスーパーで再会しました。
彼女は俺と同い年になってました。


同級生なら同い年だろうと、最後の一行が話題になったのだが、
この幻想を実体化させてしまったのが、新海誠ほしのこえ』だ。
この作品の趣向は、別離によって理想化される記憶の中の恋人
というモチーフを、SF的発想で変奏して再現したところにある。
しかもそれは、単に奇を衒ったのではなくて、われわれの現実と
リンクしている。それはネットなどの想像的な空間の拡大である。


ネットワークは円環的な時間をもたらす。時間は曲がったりしないが、
しかしニートやひきこもりにとっては、同じところぐるぐる回っている
という時間感覚はリアルだろう。そこまで行かなくても、ネットや携帯に
没頭して時間があっという間に過ぎ、ハッと我に帰ることはあるだろう。


ラブひな』は浦島太郎をモチーフにしているが、それはもちろん
浪人生活というモラトリアムを象徴している。(アニメ版よりの印象だが)
眠りの中で一瞬に過ぎる「夢」をモチーフにしており、しかもそれが
亡霊のような老人が住んでいる地方の温泉という場所と相関している。
だからどんなに現実的な脈絡が滅茶苦茶でも、擬似家族の説得力がある。
それは「萌」という人形が、主人公となるを擬似夫婦のように結び付ける
シーンで最も幻想的に現れるのだ。しかも夢とは記憶の可能な組合せだ。