苦労は必要ない。努力は報われると限らない。希望は創造性にある。

トレードオフとパレート改善

1ヶ月間だけ、思い切りがんばれば。 - Attribute=51

  • 現状を変える一発逆転があると思うかもしれないけど、どうやら近道はないみたいです。
  • 毎日少しずつ、少しずつ努力を積み重ねるしかない。まったく人生ってやつは。まったく。
  • 毎日努力している人にはどんな天才も絶対に及ばない。断言していいです。

「地道な努力」よりも、はるかに人生を好転させる努力の仕方 - 分裂勘違い君劇場

「現状を変える一発逆転」はいたるところにある。多くの人は、勇気がなかったり、ぼんやりと生きていたりするために、一発逆転のチャンスが目の前を通り過ぎるのを見過ごしてしまっているだけだ。

むしろ、「近道を探す努力」こそが正しい努力であって、「近道や一発逆転を狙わないで地道な努力を積み重ねる」という姿勢が、自分と周囲を不幸にし、格差と貧困を生み出し、日本を衰退させてきた。

信ずる者は救われる - 雑種路線でいこう

一発屋って地道に努力しているたくさんのひとがいるから食えるんだよ。みんなが一発逆転のために鋭敏なアンテナを張り巡らせて空回りしてたら、世の中たいへんなことになる。

地道か一発かというのは、トレードオフの関係があって、どちらが良いか一概には言えない。だからここでは、苦労を努力に変えることを考える。これはパレート改善で、損がない方法からだ。アドホックに大量のバッドノウハウを書き出しても、どうせすぐ忘れてしまうので、まず「苦労を努力に変換する」というグッドラッパーを強調したい。

苦労は必要ない

  • 苦労を努力に変換するのがよい

よく「若いうちの苦労は買ってでもしろ」というが、「後悔と反省は違う」というように、「苦労」と「努力」は違う。どう違うのかというと、苦労は、努力と違って、生産性の向上に寄与しない。むしろ、仕事の質と量を落とす。たとえば、不条理にいじめられて苦労したら、仕事の質が向上するだろうか。理不尽にムチで打たれたら、向上するだろうか。しない。努力は資源だが、苦労は廃棄して構わない。

それでも、老人の病気自慢のように、仕事でもいかに苦労しているかのパフォーマンスが、重視されてしまうことがある。だが苦労かサボるか、という二項対立は不毛だ。ここで、苦労したことで人に優しくなる、という場合も確かにある。だが、実際には、自分が苦労した分を他人にも要求する、苦労の再生産のループが生まれがちだ。苦労というのは動力源ではなく、むしろ空気抵抗みたいなものだ。

「苦労知らず」などといって、人が人を責めるとき、「俺がこれだけ苦労したのだから、お前もそれだけ苦労しろ」という感情がある。だがそれでは、「みんなで一緒に苦しもう」という道に進んでいく。この嫉妬が醸造する、空気による同調圧力が、日本をいくらかは住みにくくしているのではないか。端的に苦労の総量を削減する必要がある。空気抵抗は騒音も生む。

苦労した人は他人のために苦労させられたので、他人に嫉妬・自慢・邪魔したりすることで、他者への感情の負債の返却を求めていく。努力した人は自分のために努力したので、強迫的なまでにそういうことをする場合は少ない。そのように、苦労をなくしていくと、芋づる式にネガティブなことが自然と消えていく。さらに具体的な詳細は、既に書いた関連記事に回そう。

努力は必要だが、必ず報われるとは限らない

  • 努力はベクトルで、力と方向を持つ

しかし、苦労に対する努力の有用性を指摘するだけでは、まだ考察としては甘い。努力が必ず報われるとは限らない。なぜなら、仕事の対価は努力の量に比例して増えるわけではないからだ。ステップ数に比例して良いコードになるわけではないように、むしろ失敗した仕事ほど、報われない努力や苦労や怨念がゴロゴロ転がっている。

仕事の報酬は、努力ではなく、成果物の量や質によって決まる。あるいは、過程ではなく結果が求められる、というふうに言ってもよい。しかし、今度は苦労と違い、単に努力しなければ成功するというものではない。なるべく高い確率で努力を結実させるためには、いったいどうすればいいというのか?

それは、努力の方向性を考えることだ。見当違いの方向に努力すると、力が上手く伝わらない。これは、努力をスカラー量と捉えて、単に量を増やすのではなく、ベクトル量と捉えて、方向性も重視しようということだ。努力は角度によっては、全く力を発揮しないどころか、マイナスの力になる。例えば、新人をいじめようという努力だとか。

さらに、もう少し複雑な「車のギア」というモデルを導入しよう。新しいことを始めるときに、すぐ諦めてしまうのは、そのままずっとローギアで進むことを想像するからだ。しかし、確かに重い腰を動かす最初が一番大変だが、作業の回転数が一定に達した状態で、ギアをシフトできれば、飛躍的に速度が高まる*1

労働論と消費論

  • 自己の労働から他者の欲望の視点へ

最後に、さらに普遍的な問題として考える。そもそも、労働の対価は、自分の苦労とか努力ではなくて、需要と供給で決まる。つまり、欲しがっている客が多くいて、かつ、競争相手が少なければ、確実に高く売れる。これは、萌えコンテンツをずっと観察しているので実感があるのだが、美少女はそれだけで市場価値がある。

もちろん、萌え業界は市場のほんの一部だ。ただ、量より質が求められる傾向は全般にある。モノが足りて供給過剰な市場では、作り過ぎれば在庫を圧迫して結局は廃棄するだけであり、価値創造性が求められる。じっさい、耐久消費財である家電の売場が、まるで芸術を目指すように前衛化*2しているようだ、と言ったら大げさだろうか。

商品価値の説明には、マルクス経済学的な労働価値説と、近代経済学的な(限界)効用価値説がある。それは、自己の労働と他者の欲望という違いでもある。そして、現代の欲望は差異の欲望である。産業が高度化して大量生産の時期を過ぎると、同じものをたくさん造ろうとするよりは、差異を創ろうとする努力の方向性が、価値を高める。

そのような場には、消費者という存在が不可欠に関わってくる。特に、はてな界隈で流行の「集合知」や「CGM」などでは、企業は場所を提供するのであり、(ネタとして楽しみながらではあるが)努力してモノを作るのはむしろ消費者の方だ。そして、そこでの成長という概念は、苦労の物語ではなく、コミュニケーションのゲームという形態をとるのである。

*1:例えば、このブログでも、同じ時間で多くの文字数・記事数が書け、同じ文字数・記事数でもアクセスが多くなった

*2:凝ったデザインや、遠心力やマイナスイオンがどうのこうのといったコンセプト