東京工業大学・世界文明センター・講演会「アーキテクチャと思考の場所」レポート

概要

講演内容:
建築、社会設計、そしてコンピュータ・システムの3つの意味をあわせもつ言葉「アーキテクチャ」。それは、現代社会で、多様なニーズに答え、人間を無意識のうちに管理する工学的で匿名的な権力の総称になりつつある。では人文的な知は、そのような権力の台頭にどう対峙すればよいのか。
建築家の磯崎新社会学者の宮台真司、経済学者の浅田彰を招き、新世代の論客が論戦を挑む。

2009年1月28日(水)、東京工業大学・大岡山キャンパス講堂にて、「アーキテクチャと思考の場所」と題する講演会が開催された。まだ公式な数字ではないが、平日にも関わらず、1000人以上もの聴衆が、会場に詰めかけたという。筆者も実際に観客の一人として聞いてきたので、そのときの様子をお伝えしたい。

冒頭・東浩紀

舞台は第一会場とそこの映像を中継する第二会場に分かれ、筆者がいた定員600人の第一会場は満員。客席の後ろは立ち見客が占め、この会に集まる関心の高さを伺わせる。

最初に、司会の東浩紀氏がこの会を開く意図を述べる。それによると、冷戦崩壊後の世界では、グローバリズムネオリベラリズムが台頭し、権力の担い手が、人格的な存在から不可視の存在(アーキテクチャー)へと移り変わった。そのとき、批評はどのような場所でどういう役割を果たしうるのか、という問題意識があるという。

東氏が講師たちを紹介したあと、彼らを招いた理由を説明。宮台真司氏と磯崎新氏は以前対談しており、「建築家不要論」についてすでに問題提起していた。また、浅田彰氏は、1999年に開かれた『批評空間』のシンポジウム「いま批評の場所はどこにあるのか」に、東氏と共に出席している。そこから東氏が編集の一人を務める『思想地図』(1号は2008年出版)までの、10年間の変化を考えたいという。

彼ら「ベテラン軍団」が、「いま日本のネットについて書かしたら、もっとも批評的でブリリアントな文章を書く(東氏)」濱野智史氏と、「いま最も期待されている新世代の批評家(東氏)」宇野常寛氏、二人の「若手論客」を迎え撃つ構図だ。そこで議論に入る前に、この二人が基調講演を行なう。

情報環境論集―東浩紀コレクションS (講談社BOX)

情報環境論集―東浩紀コレクションS (講談社BOX)

基調講演・濱野智史

まず、濱野氏が情報社会論の立場から、Web環境周辺のアーキテクチャーのサーベイとして、発表を行なう。それによると、「生態系」、「進化論」、「自然成長性」、「自生的秩序」、など生命系の比喩と情報論は相性がよく、「単一の目的」を持った発展ではなく、進化論での系統樹のように「枝分かれ」する発展として、Webサービスを捉えた。

そこでは、たとえば「OSI参照モデル」のように、「Platform」の上に「Meta-Platform」が積み重なった結果、設計主義の否定として、「事後的合理性」「意図せざる結果」として、アーキテクチャーが現れる。そして、「永遠のベータ」というコンセプトがバージョン名に現れた動画サービス「ニコニコ動画」などに、ジットレインの「生成力」を見る。

アーキテクチャーを「建築+社会設計+情報環境」の三視点で捉えるため、建築のフィールドに引きつけて、レム・コールハースの「グリッド」という概念を提示した。都市が格子状に区画整理されていると高いビルが建ちやすいという。同氏のニコニコ動画研究で言えば、「疑似同期」的に多数のコメントを一つの動画に上乗せすると、人が大勢集まっているように見えやすい、ということと似ているだろうか。

濱野氏は自らの発表で磯崎氏を紹介してもいる。磯崎氏の著書や、同氏が建築した「旧・大分県立図書館(現・アートプラザ)」で用いられた「プロセス プランニング Process Planning」を紹介する。それによると、図書館は蔵書が増えるため、以下の三つのタイプの設計で対処することが考えられるのだという。

  1. Closed Planning
  2. Modular or Open Planning
  3. Process Planning

「Closed Planning」は最初から設計し、「Modular or Open Planning」は変化に対応するために、モジュール(機能単位)に分割する。しかし、磯崎氏はその二つには「(切断の)ドラマがない」と考え、「Process Planning」を提唱・実践した。「Process Planning」は設計・建設の過程が終わりなく続き、建築家はそれを切断する存在である。そしてそれは、スクリーンに映されていた、大分県立図書館の「切断された柱」に示されていた。

アーキテクチャの生態系

アーキテクチャの生態系

基調講演・宇野常寛

次に宇野氏が「批評の場所とその社会的機能 アーキテクチャー設計/コミュニケーション分析の課題」という講演を行ない、この発表では、批評家および編集者として、アーキテクチャーの問題に取り組んだ。

1999年から2009年までの十年間を、東氏の「棲み分ける批評」から、宇野氏の「島宇宙間の動員ゲーム」という風に捉える。実効性と理論性によって、批評家たちをマッピングした図を示しながら、「いずれかの島宇宙の免罪符としての批評」として機能しているのではないかと疑問を示す。

東氏も関わっていた「Isedised@glocom : 情報社会の倫理と設計についての学際的研究)」を参照して、「コミュニティ(倫理研的)」/「アーキテクチャー(設計研的)」という、ふたつのタイプに批評的言説を分けた。そして、「ソシオフィジックスは可能か」という『思想地図』の特集も引きつつ、実はアーキテクチャー論が、椹木野衣氏のいう日本的な「悪い場所」、「母性的なディストピア」と結びつきやすいと指摘した。

東氏は、「ハイコンテクスト」な宇野氏の発表を、「批評が癒しの言葉となった」という問題提起だとまとめる。宇野氏はそれに対する補足として、アーキテクチャーの分析の必要性を認めつつも、それはコミュニティのコミュニケーション分析と「セット販売」で「切っても切り離せない」と補足した。

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力

浅田彰

(筆者注:基調講演以降は、自由発言だが、発言の時系列は重視せず、論者で分ける構成にした)
『構造と力』以降、日本の知性を代表する浅田氏。この日も、固有名とそのエピソードを紹介しつつ、軽やかに論点を切っていく。まずはじめに1975年頃の状況を述べ、「ツリーからリゾームへ」という構図は基本的に変わってないと主張。たとえば、ブログ(や掲示板)にレスが付くこと自体が(文章の中身より)重要だといった、コミュニケーション指向のメディア環境については、マクルーハンの「メディアは(が)メッセージだ」が言い当てていたという。

また、「地球村」という観点も同様で、グローバルなビレッジではなくローカルなビレッジだという違いがあるものの、「シティ」ではなく「ビレッジ」だという発想は時代を先取りしていたとも指摘する。これに対して東氏は、認識を共有しつつも、「これからなにをすればいいのか」が重要だと発言。浅田氏・東氏両名が発言権を奪い合う場面では、会場を沸かせた。

結局、浅田氏が発言することになって、磯崎氏のポジションについて次のように解説した。自然発生的に成長するメタボリズム的なモデルに対して、磯崎氏は一種ポストメタボリズム的な立場にいたという。そこでは、仮の完成でもあり廃墟=死でもある「切断」によって、建築屋=破壊屋であるような建築家が、匿名的かつ単独的に成立する。

発表で言及されたコールハースについては、「自生的秩序」よりも、グリッドが外から与えられていることによって、個々の部屋でバラバラな活動が可能になるという、「寄生的無秩序」と捉えるべきと違和感を示した。また、個々の建築のレベルとそれを包括する都市のレベルとの視点の混在を指摘した。

ネットの可能性については、ドクサをパラドクサに追い詰め、エピステーメーに導くのが哲学だが、検索エンジンにはその発展の契機がないという。さらに、オバマ大統領が誕生したのはすばらしいが、WebサービスFacebook」による、ボナパルティズムを危惧した。そのように、エピステーメーなきままの、「ドクサ」の「ハイパードクサ」化という問題点を提起したが、最後には、ダメな日本のネットもそのダメさゆえに(ボナパルティズムよりは)よい、という共感も示した。

20世紀文化の臨界

20世紀文化の臨界

宮台真司

ロビイングなどを通じて社会的影響力を持った社会学者として、現実社会との接点を重視する宮台氏は、以前に開かれた東氏とのシンポジウムで、すべてをアーキテクチャーに任せれば上手くいくというような楽観的立場に対して、「誰が設計者になるのか」という疑問を投げかける。そのように、官僚などエリートが政治を動かすという現実を踏まえつつ、この日もどちらかというと設計主義的なポジションに立った。

はじめに、「自生的秩序」について、ハイエクは設計を否定したわけではないと、宮台氏は主張する。設計ではなく、設計に対するある種の態度を否定した。再配分など社会福祉的な設計には否定的で、秩序自体について善悪の判断はできず、その秩序が人々のどういう行為を可能・不可能にするかに注目すべきだという。

また建築に関して、ポストモダン建築の周辺が売買春の待ち合わせ場所になっていることを発見して軽い驚きを感じた同氏は、アーキテクチャーが設計された意図と必ずズレが生じることを指摘。社会の分断が進んだり共通のプラットフォームが失われて、ズレはさらに大きくなっているという。

この問題を学問的な視点から見て、ウルリッヒ・ベックの「リスク社会」論を提示。それによると、現代の社会はベイズ統計的に処理できない、予測不能・計測不能・収拾不能なリスクを抱えているという。原子力遺伝子工学などについては、現在の社会はすでにそれを前提に回っている。

しかもこのような破壊的なリスクは、金融工学についてもあてはまり、無から有を産み出す「証券化」によって制御し、金融を循環しやすくすればするほど、むしろ制御不可能なリスクが高まるという逆説的な構造がある。こうした自動的な生成だけでは破綻をきたすという論点によって、アーキテクチャー論(とコミュニケーション論)に対して、「空回り」「浮き足立つ」と批判した。

現在のWeb環境ではすべて(テキスト)ログが残せるという論点に対しては、映画『メメント』の「前向性記憶障害」(古いことは覚えているが、新しいことは覚えられない)をたとえに、不十分な点を指摘。ログが残っていても、結局のところ文脈が分からなければ解読できない。それが官僚の判断ミスなど現在の政治状況にも現れているという。

終了間際に、実は「ニコニコ動画」ユーザーであることを告白。そして、合成音声ソフト「初音ミク」で制作された動画を見ており、日本の伝統の歌謡曲が「初音ミク」で残るといった話をした。一種の終盤でのどんでん返しを東氏が指摘すると、「僕は何でも言うんです」と応じて、会場を和ませた。

14歳からの社会学 ―これからの社会を生きる君に

14歳からの社会学 ―これからの社会を生きる君に

磯崎新

磯崎新氏はこのシンポジウムで、建築家/都市デザイナーの重鎮としての立場から、現場の実態を伝える役割を果たす。結果として、過度に抽象的・思弁的な方向に行きすぎず、幅広い層が理解できる議論になったと思う。また早口の討論が多い中、ユーモアを交えた軽妙な語りで、落ち着いた議論を展開した。

たとえば、「アーキテクチャー」という言葉が、よく定義されないまま拡大解釈されていくと、「社会」といった言葉と同じように、適用範囲が広すぎて議論を行なえないと指摘。たしかに、「バーチャル」なものまで含むのかどうかなど、範囲を決めないと認識の共有が難しいだろう。

また、通称「鳥の巣」と呼ばれる、北京オリンピックのメインスタジアム「北京国家体育場」のエピソードを紹介した。それによると、鉄の厚みが5cmあればいいところを50cmにしているといった、現実離れした設計・施工だったのだが、オリンピックという国家的事業であるため、溶接工が理論上ありえない溶接をして「労働英雄」になるなど、多くの労力が注がれた結果、無理が通ってしまい、不思議な建築が実現したのだという。

なぜそのような建築が実現したのか、磯崎氏は最大の理由として、建築に関わった建築家たちが、「重さ」を感じていなかったから、ということを挙げた。設計の過程において、コンピュータ上では、無際限の可能性を試すことができるが、それを現実に適用すれば必ず「トランスファー」、変換することが必要だという。建築の現場に関わってきた磯崎氏の、文字通り「重み」のある発言だ。

東氏は、こうした疑問に、建築・演劇といった分野では重さと切り離せないが、文章・絵画・音楽など多くの分野では、重さがある現実に落とさなくても済む領域が、特にこの10年で広がっているのではないかと応じた。

建築の解体―一九六八年の建築情況

建築の解体―一九六八年の建築情況

感想

出席者は豪華メンバーを集め、観客は1000人以上も集まったという、この講演会。実際に会場で満席の熱気を感じてきた私も、成功だと思う。ただ、アーキテクチャーという今回のテーマ、その認識を共有するための議論については、今後の課題が残ったとも思う。

日本を代表する知性たちの議論に、私の理解がついていけたかどうかはとても怪しいが、私なりの理解として、この日の議論は、「生成」と「切断」の対立図式のように思えた。その図式について、あくまで私なりに、単なるブロガーとして、一ネットユーザーとして、ネット文化に関することだけ、考えてみたい。

「重さ」が残るかどうかが論点になっていたが、実は「重さ」はネットにもあるのではないか。端的にサーバーが「重い」「落ちる」という現実がある。回線が切れるのは、デリダ有限責任会社abc』での、インク切れで応答が途切れる、という事態と似ている。それは、第二会場の映像中継が20〜30分程度切断された、というこの日の事件が、象徴的に示しているのではないか。これは仕様もないことを指摘していると思うかもしれない。それに、文字のログに関しては無制限に残せる、という論点は別なのではないか。

しかし、「ググれ」「過去ログ読め」というのは、Web上のリソースが無際限でも、実際には無際限にアクセスされるわけではないということだ。ユーザー側が有限のリソースしかないからそうなるが、それを単なる不完全さではなくて、アーキテクチャーの前提条件として捉えたい。そして、回線を切断してネットワークから解離することで、「切断の契機としてのユーザー」に、匿名的であっても単独性が宿ると考える。

もう少し例を出そう。紙に印刷する本は、紙幅が限られているので字数が制限されるが、「グリッド」状の区画整備でビルが建ちやすいように、ブログなどのCMSが普及するとエントリが縦に伸びやすい。しかし、どれだけ長文を書けようとも、「今北産業(今来たから三行でまとめよという意)」のように、読者の側が限界を決める。「初音ミク」についても、ミクは息をしなくても、視聴者が自然に感じるように、ブレスを入れることがあるだろう。

また、掲示板運営を都市デザインのように見立て、公共性について関連して、「いま、彼ほど不真面目で社会的影響力のある人はいない(東氏)」などと何回か言及された西村博之氏については、「少なくとも公的には公共的に振る舞っていない(東氏)」という限りで、「裏返しの公共性」は機能しているのではないか。公共性は他者によって成立する。だから、西村氏がどのように考えようがどのように振る舞おうが関係なく、外部の人間が公的なもの「として他者が見る」ことで、公共性が成立する。

アーキテクチャーと設計者の関係だけでなく、利用者との観点が必要だと思っている。ニコニコ動画にしても、動画が「重い」ために、回線料がかかり、赤字になっている。今後も長期的に運営するためには、視聴者/利用者が金を落とすことが必要になる。それは、有料サービス「としてユーザーが使う」ことにほかならない。だから、アーキテクチャーは絶対ではなく、利用者が市場を通じてアーキテクチャーもまた選別される。つまり、ネットでも金の「重さ」は残るのである。そして、アーキテクチャーも「サービス終了」という形で、死ぬ。

つまり、物理的制限がないから無秩序なのではなくて、人間の認識的制約による秩序があるのではないか。そして、回線が「落ちる」だとか、有料ソフトを「落とす」代わりに口座から「引き落とされる」といった、トランスファーするときに、「重さ」が出てくると考える。さらに、GoogleのペイジランクやAmazonのリコメンドなどは、統計的に「重み付け」するものだ。そしてそれが、「ハイパードクサ」を形式化するシステムになっている。ネットの時間性における「疑似同期」という概念に倣って言えば、「疑似重量」があるのだと言えるかもしれない。

宣伝

さて、最後に少し宣伝させて頂くと、今日の出演者の濱野智史氏は、批評同人誌『新文学』に、「初音ミク」と(キャラクター)政治に関する論考を寄稿されている。『新文学』は、2月15日のコミティアで販売予定なので、そちらもぜひご覧頂きたい。

『新文学』

関連書籍

NHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日本

NHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日本

NHKブックス別巻 思想地図 vol.2 特集・ジェネレーション

NHKブックス別巻 思想地図 vol.2 特集・ジェネレーション