才能は欠落から生じる

Invitation (インビテーション) 2006年 05月号 [雑誌] 書籍


対談で、宇多田ヒカルが「犠牲」という言葉を使い、さらに「ギリシャ神話」に触れていたのが興味深い。たぶん冥界のシシュポスの話だろう。何度も石を山の上に押し上げるが、石は転がり落ちてしまう。賽の河原に似ているが、フロイトのFort-Daのような感覚は時代や地域を超えて共通しているのかもしれない。そして彼女はまた、欠けているものを埋め合わせることが創作であると認識しているようだ。


これは布施英利が紹介した話だが、養老孟司は才能は欠落であると言っていて、ある踊りの名人がいて彼の踊りは独特で他のものが真似ができないと評されていたが、死後脳を解剖してみると運動機能に欠落があったという。しかし、乙武洋匡のような、ハンディキャップを乗り越えて努力する、それはそれで尊い姿とは微妙に別の話である。そこのところをもう少し展開しよう。


ふつう才能のある人というのは生まれつき「他の人にない能力」を持っているとされている。対して、今まで述べた欠落的才能論ではむしろ、「他の人の能力がない」ことによって、新たな力を獲得することができるというように、全く反転している。


宮崎駿が、創作を志すような人間は酒を呑んで暴れてはダメだ、という話をしたことがあるらしい。酒で暴れるとかネットで暴れるとか、つまらないことで欠落を性急に満たすのはもったいないのだろう。渡辺浩弐の「ひらきこもり」に通じるかもしれない。


繰り返して注意すれば、運か努力かというよくある二項対立ではなくて、欠落・喪失・空虚といった無の場所において、他者から学ぶことができるという話なのである。もう一つ陥りがちなパターンに「コンプレックスをバネにする」という発想がある。これについても考える。


いわゆるコンプレックス*1から生じた表現というのは、実際には大変つまらないことが多い。コンプレックスというのをルサンチマンと言い換えてもいいのだが、ネットの罵倒はそのような感情に流されているものが大半だろう。


つまらないのはこれが自らの負け、アイデンティティーの負債を取り戻そうというだけのことだからだ。つまり、加野瀬未友が言うような「自尊心バトル」だろうか。享楽を他者が盗んでいると想定して、自らの欠損を埋め合わせようとしている。そのような他人の存在証明につきあうのは退屈だろう。


そうではなくて、コンプレックスが詩や音楽のように、無意識のレベルで共有されることで、はじめて「表現」になるのだ。それは吝嗇な自意識の賭けではなくて、表現が身体性や歴史性を持つことに他ならない。言うなれば、「語る」ことが出来るレベルではなく「示す」ことでしか伝わらないレベルで、欠落は表現に昇華するのである。


そこまで来た時に、他者は盗人ではなくてむしろ贈与の対象になる。主体が自らの無力を認め、無意識の地平に身を投じるとき、はじめて他者に通じる表現ができるのだ。そのような身振りが宇多田の言う「犠牲」なのだろう。

*1:正確に言えば「inferiority complex」だろうが、ここでは俗な使い方で構わない