日本は物が貧しい

日本は物が貧しい

「日本は物が豊かだが心が貧しい」型の意見は見たことがあると思いますが、ここで述べるのはそもそも「日本は物が貧しい」という主張です。

「それはおかしい。日本は豊かではないか」という反対意見があるでしょう。たしかに日本は豊かです。しかしそれは、「物の豊かさではなく金の豊かさ」だと捉えています。じっさい、日本人は貯金が好きですが、欲しい物に使う手段ではなく、お金自体が欲しい、と自己目的化しているところがあります。

「いや、日本には物が溢れかえっている」という反対がまだあるでしょう。しかし、「物が多い=物が豊か ではない」と言いたい。たとえば、使わない物が死蔵してあっても、生活を豊かにしないでしょう。ローンの支払いだけ残っていたりしたら、かえって貧しくなります。

物の豊かさとは、「物を選んで使うところまで含めた豊さ」です。戦後の経済成長を見ても、日本人は金を稼ぐのは得意ですが、使うのは下手です。車の両輪の片方を欠いているようなもので、これが「豊かさを実感できない」ことの一因だと思われます。

消費と労働の貧しさスパイラル

使い方の下手さの実例は、バブル時代に山ほどあります。土地神話・地価高騰・地上げ・リゾート開発・ゴルフ会員権・財テク・名画落札・ブランド買い漁り、などなど……。しかしこれらは、後の時代に豊かさを残さず、むしろツケを残しました。

バブル崩壊後も、使い方が上手くなったわけではなく、単にケチになっただけ、それも必要な部分を削りました。具体的には破綻した経済をリストラで建て直します。世界に誇る優秀な日本の自動車は、車体が衝撃を吸収して人間を守りますが、日本の経済は人間をクッションにする仕組みです。

そして、「良い物を作れば売れる」というのは、「良い物が作られれば買う」客の存在が必要条件です。良い物を作れと言っておいて、自分だけは安い物を買って済ましたい人が大半を占めれば、結局は安い物しか作れないのです。そして、「安い物」は、非正規雇用による「安い給料」とスパイラルになっていきます。これらも車の両輪です。

ネオリベラリズム的な市場主義というときに、その実体は「流通主義」ではないかと思います。メディアや広告代理店も含めた、流通回路を押さえた者が一人勝ちする、という図式です。広告代理店的な「代理の力」は選択の代理から発生します。だから、一人一人が物を選ぶことが重要になるのです。

転回

マッチョとウィンプといった、はてブの下らない議論からは、こうした全体を見る視点が欠落しています。これは、自己責任がどうこうといった、「自己論」から「他者論」への転回、そして「精神論」から「物質論」(唯物論)への転回なのです。