ネオエクスデス的アート

痛いニュース(ノ∀`):精神分裂病患者の絵


タイトルは「アウトサイダーアート」の方が近いと思う。斎藤環文脈病―ラカン・ベイトソン・マトゥラーナにエセ精神病患者の絵を見分けるというくだりがあって、その基準だと多くが神経症(健常者)に分類されそう。専門家じゃないので分からないけど。あと精神分裂病は旧名で統合失調症の方がナウい。ちなみにヘンリーダーガーはやはり斎藤環戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)で解説が載ってますね。ダーガーのような症例から一般化しようというのは反対ですけど。あと199は画家の立島夕子


フラクタル図形のような「ルイス・ウェインの猫」なんですが、これ普通に格好良いと思うんだけど。もともと昔からある東南アジアの幾何学的・装飾的な絵と感覚が共通しているんだけど、サブカル系でもこういうサイケデリックな絵柄はよく目にする。昔のガロや今のAXなんかにもよくある。根本敬精子絵とか。アートだと村上隆のDOBの目玉絵とか。オタクはどうか? 美少女絵は違うけど、ダライアスのボスとかネオエクスデスとか、特にボス敵はこういう感覚だと思う。(カルコブリーナとか、FF5より早くに合体するボスはあるんですが、ネオエクスデスが一番象徴的で分かりやすい)


結局、認識対象のカオス化みたいなことは、ピカソの頃からあったわけで、こういう感覚は20世紀〜21世紀の本流なんだと思います。近代は分割できない個人を単位にしていて、それが民主主義(一人が一票投じる)とか作家主義(一人が一作書く)とか色々なバリエーションになってる。でも、2ちゃんねるにしても同人の二次創作にしても、あるいはハイパーリンクだとかwikiだとかオープンソースだとかweb(2.0)の色々なシステムにしても、匿名の有象無象の集団が、何となくコミュニケーションを形成してしまう点で似ている。


もちろんネットワークは病気ではないけれども、分裂して統合を欠いたままで自然と形成されていくという複雑系のコミュニティは、表面の見栄えはともかく全部同じ発想だと思います。こういう流れを一言で「ネオエクスデス化」とでも言っておきます。『生物都市』とか昔からあるんですけど、百万本単位のヒット作が分かりやすいかと思って。とにかく同じ構造です。これは前にも言ったけど、途中から見てる人も多いだろうから、言及しておきます。


ネオエクスデス的アートの補足 次回


追記:ヒエロニムス・ボッシュの「快楽の園」
動く「ヒエロニムス・ボッシュの快楽の園」
via REVの日記


ベルセルクの地獄絵図みたいな映像。身体がバラバラに動いているのが印象的です。ちなみに面白いことに「音楽地獄」という名前もついているんですね。それで、ラカンがボッスの作品に言及していて、「寸断された身体像」なんだとか。身体は人格の下位モジュールなんだけど、例えば「まなざし」とかは人格とは言わなくても「身格」とでもいうか、生命を感じさせる何か*1を持ってますよね。だから最初の記事で顔とか目がびっしり描いてあると不気味なわけでしょう。

*1:もっと洗練された説明だと「まなざし」は「対象a」ということになりますが、それはまた別の機会に