祭り型アニメと釣り型アニメ

祭り型アニメ

萌え理論Blog - 祭り型コンテンツとしての『涼宮ハルヒの憂鬱』
萌え理論Blog - 涼宮ハルヒの反論


一番目の記事を簡単に要約すると、TVアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』がブレイクしたのは、祭り型コンテンツだったからではないか、という話だ。つまり、一人で見て楽しいタイプのアニメと大勢で見て楽しいタイプの作品があり、後者が祭り型である。ハルヒ(アニメ版)はネットでコミュニケーションするための設定に凝っていた。公式関連や第一話を見るにその仕掛けは相当自覚的にやっているようだ。


二番目の記事を簡単に要約すると、ハルヒアニメはエロゲの方法論とは別だという話。萌え要素はそれほど重要ではなくて、祭り要素の方を重要視している。もう少し言うと、キャラ萌えはブレイクの必要条件かもしれないが、十分条件ではないだろうということ。ちなみにネタにマジレスではあるけれど、コピペの指摘がかなり的を射ているようにも思えたので反論した。ただし、的は射ているけれども、刺さり方は浅いと思う。

釣り型アニメ

実況掲示板などで、「意味が分からない」と言う新規で見ている視聴者と、「原作では××ページに〜」という原作から読んでいる読者のやり取り(実際はもっと煽り合い)を見ていると、少し不毛な気分になる。いや、ハルヒアニメの場合は京アニのクオリティの高さで成立している(ただストーブの回の長回しはどうか)と思う。しかし、出来の良し悪しではなくて、もう少し別の話である。


今までのメディアミックスでは、一応は原作を知らなくても分かるように構成されていると思うのだが、その暗黙の約束事もハルヒのブレイクによって崩れて、原作を知っていることでこう変更したと分かる暗号的な構成が増えてくるかもしれない。もっと端的に言うと、同人的な構成である。つまり原作を知らないと文脈がよく掴めない。文字化けのようなことである。


ハルヒアニメの場合は原作の情報がなくても、作画の技術や演出の工夫でそれなりに「間」が持つようになっている。この「間」がなくなると、単なる視聴者の気が引ければよいという思わせぶりになってしまう。要するに、祭り型アニメは間が抜ければ釣り型アニメになる。両者の差は紙一重だ。今回のブレイクでハルヒ的手法が一般化するかもしれない。祭りはいいのだが、釣りが増えないように願う。