文章と絵・ストーリーとゲーム・内容と形式

キャラ立ちの二つの属性

 物語において、キャラクターが立つ瞬間というのは、品物の引換券が、通貨になる瞬間と同じくらいスリリングな光景なのでしょう。物語を飛び越えて、キャラが立つ瞬間というのも、金塊の引換券であった通貨が、金塊の保証なしに流通する瞬間くらい、驚くべき光景です。


以前の項で、キャラクターを貨幣に見立てたが、その構造的比喩を更に展開している。
キャラバブルがなければ今の萌えブームはなく同人市場もないが、しかしでは、
323絵の不正分割(トレス)はライブドアの不祥事のようなものなのだろうか?
それは措くとして。とにかく、323絵は買い注文が殺到する優良株には違いない。


しかし、参照元でも指摘するように物語と絵の関係というものがあり、
例えば陵辱物では他系統の絵の方が映えるから、全制覇まではしない。
これはテクニカル分析ファンダメンタル分析の違いのようなものだろうか。
文章と絵、ストーリーとゲーム、内容と形式の関係についてはまた触れる。


少しだけ言えば、ひぐらしの絵を馬鹿にした傷害事件があったが、
ひぐらしの絵はあのゲームだから生きるのであり、オタクならば
それを指摘しなければいけないのだ。それは「いたる絵」と同じ。
あのアルカイックな絵が内容のセンチメンタルさに合っている。


これは例えば、昔の弾幕STGが、処理落ちすら逆手に取って、
ゲーム性を高めてしまうのと同じではないか。あるいは、
バイオハザードがホラーであるがゆえに、PSの読み込み時間
という不利さを感じさせず、むしろ緊張をもたらすのと同じだ。


更に言えば、リュックに生えた羽は、偽物の飛べない羽であり、
(偽の)天使を象徴する。またタイヤキは菓子の魚であり、
偽物、レプリカを象徴する。レプリカであるということは、
月宮あゆがそうだということと、『KANON』がそうだということと
二重写しになっており、だから「うぐう」がいかにもフェイクだとかの、
泣きゲ萌えゲに対する批判はつねに・すでに先取りされているのである。
単なるキャラバブルの中から、真に重要な問題を読み取らなければならない。