キャラクター立ちの定義

ピアノ・ファイア - 「キャラクターが立った」という瞬間には二通りのケースがある


前項を応用すれば、作品内キャラクター立ちは、「現実キャラクター立ち」で、
脳内キャラクター立ちは、「可能キャラクター立ち」と明確に位置づけられる。
「可能キャラクター立ち」とは、すなわち「キャラ立ち」とイコールになろう。
(脳内も現実の一つであって、本当は「可能世界」の定義が甘いのだが、
 ここではなるべく分かりやすさを優先して、正確な記述は後回しにする。
 とりあえずは、現実世界を作品世界と同一視して構わない)

二次創作の源泉にもなる


二次創作の元になるという意味では「キャラ」なのかもしれないが、
「“頭の中”という別メディアの中に描かれた“キャラクター”」
という見方でもいいかもしれない


こちらの定義でも、そもそも「萌え」るための条件が二次創作可能性なので、
「キャラ」になる。(正確に言うと原作の設定上での二次創作可能性は燃え。
これを二次創作求心性とでも呼んで、萌えのそれと区別しておこう。)
が、脳内メディアでの「キャラクター」とも排他ではなく両立の関係になる。
前項の図式から、燃え=偶然好きと萌え=可能好きの両立は可能であるから。
(ただし、参照元ではキャラクターとキャラの更なる中間点を模索している)


しかし、そもそも「キャラクター立ち」の定義をしていなかった。
「キャラクターに萌える」の主語は鑑賞者だが、
「キャラクターが立つ」の主語はキャラクターである。
(主語の違いの指摘は東浩紀によるもの)
従って「キャラクター立ち」の定義は、
「キャラクターを主語にした記述群が物語との関係で成立する」ことで、
これに対になる「キャラクター萌え」の定義は、
「(原作の)物語から離れても、(鑑賞者によって)記述群が成立する」こと。
ちなみに「キャラ立ち」「キャラ萌え」は、
キャラクター自体の変化可能性がある場合に使う。


定義屋なので、抽象的な話しかなく、辟易とするかもしれない。
例えばある物語で、それが日本の話なら、描かれていなくても
総理大臣は存在し、大きな影響があるだろうが、物語との関係
で言えば、通行人と同じく、キャラクター立ちはないのである。
ただ目立つキャラクターとの違いは「関係」にある。すなわち、
他の登場人物と行為連関がある、ゲームを持つということだ。