様相萌え論理

前回、「萌えは可能世界を要請する」と結論した。
これを更に具体的に展開すると「萌え」と「好き」
の違いを様相によって定義することが可能になる。

  • 「好き」は、現実世界において(対象を)「好き」である。
  • 「萌え」=「可能・好き」は、少なくとも一つの可能世界で「好き」である。
  • 「萎え」=「不可能・好き」は、全ての可能世界で「好き」でない。
  • 「燃え」=「偶然・好き」は、全ての可能世界で「好き」という訳ではない。
  • 「愛」=「必然・好き」は、全ての可能世界で「好き」である。


上は二つ以上の組合せも考えられる。「好きかつ萌え」は可である。
しかし、「萌えかつ萎え」は不可だ。このようにして分析していく。
また「好きでない、かつ萌え」で好きと萌えの違いが決定的になる。
これは原作が嫌いだが、そのバリエーションは求めるという場合か。
例えば、エヴァの最終回や劇場版は嫌いだが、同人は求めるだとか。


このような「メタ好き」の理論装置を導入することで、
「好きでない(嫌い)かつ、萌え」が今までは主体の
感情の問題にされていたが、メディアから考えられる。
つまり、「オタクは精神が幼稚でアンビヴァレントな
態度を取ってしまう」とは違う解釈を提出できるのだ。


更に展開するならば、「スク水で巨乳だと、かえって萎えるんだ」
のような条件付きの言明を考える。上は発言者の可能世界において
スク水かつ巨乳の条件を満たす世界に好きがないという意味になる。
萌えは「もしAならば、B」あるいは「if」という条件法の世界だ。
振り返れば限定状況としてのツンデレのディレンマもそうだったし、
ブログ最初の「組合せ説」も「可能」な組合せだから同じ方向だ。