「経済学は机上の空論」という空論

今回の生産性議論で一番生産性がないのは、はてブのコメントの中でも、特に「経済学は机上の空論」というような意見だ。なぜか。

そもそも、現実が経済学と全く関係ないなどということはありえない。(個人規模ならともかく)一定以上の規模がある企業なら、さまざまな意思決定の局面で、経済(経営)学的な判断をするだろう。どこに出店するか、幾らで仕入れるか、どれ位生産するか、社員はどれ位雇うか、商品の価格は幾らにするか。

「机上の空論」論者は、経済学(と統計学など関連する一部の数学)的手法に全く基づかずに、自分でよりベターな決定を下せるだろうか。つまり、線形計画法を用いたり損益分岐点を出したりするのは全部ダメなのだ。そして、1回や2回ではなく長期的視点で継続的に見たときに、うまくいくかどうかは、かなり怪しい。

現実の複雑性を縮減することに、モデル化とシミュレーションの意義があるのだから、モデルが単純なのは当然だ。そこからより現実に近似させて複雑化させていくこともできる。もちろんモデル「だけで」判断したり決定したりもしないが、それはモデルが不要だということとは全く異なる。

生産性議論の簡潔公平まとめ

現在の議論の焦点

山形・池田「生産性論争」への今頃のコメント

山形さんが本当に言いたかったことは、
「ある産業での国際的な所得格差は、その産業の国際的な生産性格差に起因するものではない」
ということだと思われる。

賃金水準は、絶対的な生産性で決まるんじゃない。その社会の平均的な生産性で決まるんだ。

http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20070211/p1

発端となった上の箇所の解釈において、賃金水準が全体のものか個別のものかで、全く異なる。海外の経済学者に宛てたメールによって齟齬が明らかになったが、山形浩生氏は「全体」の賃金という意図で発言し、池田信夫氏は「個別」の賃金という意味で解釈したらしく、議論にすれ違いがある。発端となった文章がどちらの意図で解釈できるのかをめぐっては議論の余地があるだろう。

「ボブの絵画教室」からエンジニアリングを学ぶ

なつみかん@はてな - ニコニコ動画の「ボブの絵画教室」が面白すぎる

TV番組「ボブの絵画教室(The Joy of Painting)」では、画家ボブ・ロスが、絵の具を乾かさないまま塗り重ねる技法(ウエット・オン・ウエット)によって、劇的に短時間で風景画の油絵を仕上げる、その創作過程を映している。

ボブの絵画教室」はただ見ているだけでも十分面白いのだが、絵が描けなくても参考になる要素があるので、考察してみよう。もちろん真似できない職人芸的・熟練的要素があることは承知で、単純化した要素のみを考える。

ハード

まず絵の具を見よう。既に述べたように、絵の具を乾かさないまま塗り重ね、そのことによって乾燥を待つ時間を省く。ここで、油分の少ない絵の具を使っているというような工夫がある。

次に筆のことを考える。「ハケ」と形容した方が近いような、幅の広い筆を使っている。学校の美術の時間などでは、もっと細い筆を使っているだろう。単純に考えると、幅の広い筆を使うと、塗れる面積が大きい。しかし、だから早く仕上がるかというと、その分小回りが効かないというトレードオフが当然あるだろう。

しかし更にキャンバスとの関連を考えてみよう。キャンバスと筆の材質によって塗りムラが生じるわけだが、この偶然的要素を、必然的な表現のように鑑賞者に見せるところにポイントがある。書道で墨のかすれも書の構成要素になっている、というようなことに近いかもしれない。

ここで、風景画(モチーフが自然物の絵)だということが決定的に効いてくる。樹木のような自然物は細部の形がある程度ランダムで構わない。もしこれが人物画・肖像画だとか機械などの人工物の絵だと、元の形が決まっているので、再現しなくてはいけない情報量が多い。だから、専門特化で固定された仕様の要求に合わせて実装を最適化する、という合理性がある。

ソフト

ここまではハードウェアを見てきたが、ソフトウェアにも触れておこう。ここで言うソフトとは画家としての眼、すなわち物の見方のことだ。どうしてあんなに細部が適当なのに絵として成立してしまうかと言えば、「全体を見る力」更に正確に言うと「全体と部分を同時に見る力」があるからなのだろう。

大昔から、例えばバロックの頃にも、細部の筆致が適当なのに、離れて見ると全くそれを感じないという、魔術的な描き方が存在した。われわれも、テレビやPCモニタの画面は小さな点で構成されていることを知っているが、普段はそれを意識しない。しかし、画家はミクロとマクロの視点を両立して、ミクロでのランダム性にある程度身を任せながらも、マクロでの整合性を調整することができる。

そして出来上がった絵を見ても、鑑賞者はその二つのレベルの違いは認識できない。というよりもむしろ、認識できないように上手く隠蔽しているのが良い絵だとも言える*1。つまり、全体と部分の調和だとか、部分の総和を越える全体性といった、伝統的な難題を実践しているのである。

*1:ただし印象派の点描などでは、この二つの視点の解離がはっきり認識できる

分裂勘違い君劇場の主張を統合すると…

分裂勘違い君劇場 - 図解:あなたの給料もワーキングプアの給料も大部分は努力や成果と関係なく決まっています

こうして考えてみると、たとえ一切の障壁がなく、完全な自由競争によって賃金が分配されたとしてさえ、賃金格差をどこまで正当化できるのか、かなり怪しく感じられます。

しかも、現実には、直接能力とどこまで関係するのか怪しい参入障壁の積み重ねで、人々の賃金のかなりの部分が決まっています。

つまり、理想的な状態においてさえ、賃金格差は必要悪でしかなく、現実には、賃金格差は、道義的に正当化できる根拠はかなり怪しいのです。

さらには、「賃金格差を拡大させたにも関わらず生産性が向上しなかったケース」など、現実にはいくらでもあります。

さらに、賃金格差を正当化するのは、能力というより成果でなければならないですが、現実には、望み通りに機能するような成果評価システムを作るのはかなり困難なことも多く、その弊害も多いでしょう。

つまり、賃金格差の拡大は、もしかしたら必要悪ですらないかも知れないのです。

分裂勘違い君劇場 - プログラマの労働条件を過酷にしているのは、過酷な労働条件を受け入れるプログラマです

過酷な労働条件を受け入れるプログラマというのは、ダンピングをしています。

つまり、労働力の不当な安売りです。

本来、プログラマは、サービス残業を強要されたら、それを拒否すべきです。

あらかじめ無理なスケジュールだとわかっているプロジェクトも、拒否すべきです。

安い賃金で働くことも拒否すべきです。

それらを拒否せずに、受け入れるプログラマが多いから、他のプログラマまでそれらを受け入れなければならなくなるのです。

結局、プログラマを過酷な労働条件と安い賃金に追いやっているのは、有能なのに安い賃金で無理なプロジェクトを引き受けるダンピングプログラマなのです。

世界史を勉強すれば、この「抜け駆け」こそが、搾取と隷属を作り出してきたことがよく分かります。

  • 完全な自由競争によって賃金が分配されても賃金格差を正当化できない
    • 能力と直接関係しない参入障壁で賃金の大部分が決まっている
    • 「賃金格差を拡大させたにも関わらず生産性が向上しなかったケース」
    • 賃金格差を正当化できる成果評価システムを作るのは困難で弊害も多い

両方それなりに説得力を持っている主張だと思うけど、二つの主張を統合すると、「プログラマの賃金格差(だけ)は正当化できる」という結論になるのかな。*1

*1:まあ結論として、1.プログラマが特殊な職種であって一般化できない2.格差が広がり過ぎない緩やかな自由競争 といった辺りに落ち着きそうな気がする