リアルの見方を変えるための文章修行

前回の概要

ネットで文章修行は本当に必要か? - 萌え理論Blog

ネットで受けるコンテンツは、ネタの面白さのウェイトが大きい。それに、「あ、ぽこたんインしたお」*1のように、伝統的からやや離れた日本語のほうが広まる。そもそも、文芸の世界でも、ケータイ小説のほうが、多く読まれているだろう。

というわけで、ネットで公開して注目を集めたいといった場合、文章術に執着する意義はあまり見出せなかった。だが、この話はまだ終わりではないのだ。

前回のエントリでは、「手段の自己目的化(自己満足的な文章作法へのこだわり)」と、「目的のためなら手段を選ばない(受けを狙うならなんでもあり)」という、目的−手段の二項対立の構図をあえて描いた。

しかし、目的と手段の間には、もう少し微妙な関係が存在する。ここではそれを、思考と言語という対に置き換えて、そもそも言葉を書き記すということが、どういうことなのかを考察したい。

思考と道具

人間にとって、言語は思考の道具である。言語を使わないと全く思考できない、というわけでもない*2。言葉にならない勘のようなものもあるだろう。

しかし、ある程度抽象化されたことを考えようとすれば、言語を用いる必要が生じる。たとえば、数学の問題を解くのに、数学の言語(数式など)を抜きにするのは難しい。たとえれば、料理が道具にかなり依存しているようなものか。つまり、生身の体で火は起こせないので、火を通した料理を作ろうとすれば、何らかの道具が必須だろう。

そして、言葉を用いる時点で、思考はその言葉と、不可分な関係を持つ。現代日本で虹は七色とされているが、大昔はもっと数が少なかったらしい。昔の人間も同じ虹を見ていたが、語を通した対象の分節の仕方が異なるのだ。ほかにも、日本語では「兄と弟」だが、英語では両方「Brother」だ、といった違いが見られる。

このように、思考は言語と密接な関係がある。だから、文章の書き方を訓練することは、思考を鍛えることにも、結びつくのではないだろうか。テーマを決めること、題を付けること、段落を分けること、読点を打つこと、語を選ぶこと、語順を変えること、といったこと全てが、思考の鍛錬になる。

こうして文章を書き続ける動機に、ネットで目立って承認を得たいから、といったこともなくはないが、それだけなら、もっと巧いやり方がありそうだ。しかし、私が文を書き綴る理由には、新しい世界の姿を見たい、という好奇心のようなものがある。

多様な言語

人間のコミュニケーションは、主に言葉を通じて行なわれる。日本では日本語が最も通じやすい言語だろう。だが、音楽や絵画も一種の言語と見なせる。それらは、思考(あるいは感情・感覚)の一部を構成している。たとえば、長調の曲が明るく・短調の曲は暗く感じるとか、暖色が温かく・寒色は冷たく感じる、といった経験がそうだ。

幼少時から音楽教育を受けていた者が身につけられる、「絶対音感」という感覚があるらしい。それがあると、日常の環境音も全て音階を判別することができるという。そして、絶対音感のような現象は、これほど明確な違いとして現れなくても、音楽以外の分野でもあるように思われる。

「水」という単純な対象でも、人によって視線は異なってくる。たとえば……科学者(化学者)なら、水素と酸素の分子の結合として捉える。作家なら、水が登場するドラマチックなシーン(滝や津波など)を考え出す。画家なら、水面の反射や透過といった光の現象を描き出す。

このように、水は水のままでも、眺める者の関心によって、全く異なる相貌を見せるのだ。しかも、人によるというだけでなく、ひとりの人間の中でも異なる見方がある。買い物をするときに効果(PCならスペックとか)と値段の間で、何かの判断をするときに立場と私情の間*3で、視界が揺れ動く経験はあるだろう。

この世界には多様性がある。その「多様性」は、いろいろな出来事がある、という多様さではなくて、ひとつの出来事を、多様な視野で見比べられる、という意味で用いた。それはちょうど、ひとつの像を異なる視点で見つめた、ピカソキュビスムが描く絵のようなものだ。

結び

書き留めた一語が、塗り付けた一筆が、奏でてみた一音が、あるいはハンドルのひとさばきが、世界を見渡す眺めを変えている。それは気付かないほど微妙なものだが、年月が経って蓄積すると、眼に見えて違いが現れてくる。だから、何かの道を究めようとすることは、注目されないかもしれないし、その道の名人の境地に達しないかもしれないが、少なくとも、自分なりの世界を見つけることは可能ではないだろうか。

*1:ただこの名言(?)は、「ちゃん」→「たん」、「入る」→「インした」、「よ」→「お」と、語を置き換えて「が」を省略しただけで、文法は全く破壊されていない。ネットに広まったインパクトは、幼児語に近い語感から生じているだろう

*2:暗黙知」「身体知」もあるだろう

*3:ドラマでいうと、貧しい子供の盗みを、見なかったことにする、といった場面など