ロングテールの帝国

大量生産・大量消費

日本は人が貧しい - 萌え理論Blog

たしかに日本は豊かですが、それは「組織が豊かで、人は貧しい」のではないでしょうか。

それでは、かつての「大量生産」「大量消費」論と何が違うのか。ベルトコンベアー式の工場化で労働者は疎外される、といった旧来の図式とどこが違うのか。

あるいは、もう画一的な大量生産・流通・販売・消費の時代は終わった、これからは記号的消費の時代だ、という80年代の話はどこに行ったのか。バブル崩壊の反動で単に保守化した、ということなのだろうか。そんな気もする。だが違う。

昔は、大量生産では同じものが流通するので、消費者の細かい需要を捉えきれず、商品の過剰な在庫が出ることもあり、小回りが利かないから必ず隙間が残るはずで、中小・零細・個人はそのニッチを狙え、という話だった。これは分かりやすい。

恐竜とアメーバ

ところが、いま急速に台頭しつつある勢力は全くそうではない。たとえば、「ロングテール」というのがあって、土地の安い場所に巨大な倉庫を作り、ネットの注文を介して届けるため、今までは場所代で利益も出なかったような、マニアックな商品が置けるようになった。有名な話だ。

ということは原理的に、規模が大きくなればなるほど、細かい需要に応える商品が揃えられる。ここがかつての大量流通・販売と全く違う。これは商売敵の視点から見ると実に恐ろしい。死角がないからだ。それ以前からPOSシステムがすでにあったが、流通というバックに控えている。だがネットは検索ができるので、そのメリットがより前面に出てきた。

よく大企業を恐竜に喩えることがある*1。大きくて力ではかなわないけれど、隙も大きいから、ネズミのように走り回って足下をかいくぐり、チーズをかすめ取ってやれ。だが、ロングテールのシステムは、巨大なアメーバ・スライムのように増殖して、市場という部屋の中を隙間なく満たす。そして、取り込めるものは全て吸収してしまう。

今まで出る幕がなかった超マイナーなインディーズも、商業的媒体に載ることが可能になった、という面は確かにある。しかし、テールからヘッドに回るのはやはり難しいし、別の部分でマイナーな店舗は消えていく。巨大な単細胞生物が市場を隙間なく満たし、小さな生命はその原始の海に漂うことでのみ生きながらえる。

ロングテールの帝国

そして、OS・検索エンジン・ゲーム機……など、ネットワーク的性質を備えたプラットフォーム一般にそういう側面があるのではないか。一つか二つかの機種なり規格なりが、勝負にならないほど圧倒的に勝ちまくって残りは敗退する、一人勝ちの構図だ。その内部ではCGM的な多様性が見られるが、外部に出られない。

技術が進歩したことで以前の時代よりも確実に選択肢が増えているはずなのに、どこか息苦しいのなら、それはこの例外を許さない全体性にあるだろう。ある一つの規則がデファクトスタンダードになったとき、村八分にされてしまったら大変なことになる。そこでのフィルタリングは文字通り「一網打尽」なのだから。

何らかのアーキテクチャを普及させた大企業の社員はいい。けれども、残りはどうすればいいのだろう。ごく一部のシステム管理者と、大多数のシステム利用者という、極端な二極化が生じる。流通回路が全面化したときに、どこにいけば外に出られるのか。出口がないのではないか。ロングテールはバラ色の未来を約束するのだろうか。

はてブはいつも「Web2.0」礼賛で、たしかにこの便利さを一度味わってしまったら、後ろにはもう戻れないだろうなと、消費者としては実感する。だけれど、同時に少し違和感も覚えていて、このように言語化した。この新しく出現した大規模かつ精密な流通回路、すなわち「ロングテールの帝国」は、どこに向かおうとしているのだろうか。

*1:ロングテールも尻尾だ