アマからの革命

経緯

プロとアマの違いは一つ - 萌え理論Blog

お金が稼げればプロ、稼げなければアマチュアです。

「お客様は神様だ」と言いますが、客が神というのは、お金を払うからに他なりません。

すなわち、仕事の価値は自己ではなく、対価を払う他者が決めます。

上のエントリに、「美術・映像作家」の方から、果たしてそれでいいのだろうか、という趣旨のコメントが付いています。たしかに、みもふたもない、救いがない結論です。

ネオリベラリズムが台頭した現在、経済原理的な言説は非常に強くなっています。私は大衆的なブロガーで権威がないですから、単に「心の豊かさ」的なことを説いても、「うさんくさい」感じになり、説得力に欠けるでしょう。

まず、現在の状況のリアルな認識が欲しいのです。それを前提にしつつ、なおひっくり返していくような視点で見ていきます。

客はアマ

はてブで流行のプロ論が退屈な説教になっているのは、「プロ>(超えられない壁)>アマチュア」という図式が最初にあって、そこにコピペ的に適当な要素を当てはめているからです。上のエントリは、もはや努力も信念も一切関係なく市場が決定するという形で、その流れを極論化しています。

しかしこれでは事態の半分しか見ていません。「アマチュア>(超えられない壁)>プロ」という部分もあります。どこに? 「お客様は神様だ」というときの客は、定義上アマチュアにほかなりません。労働と消費、あるいは作家と読者の片面しか見ていなかったから、見つからなかったのです。

だから、消費社会を否定するのではなく、むしろ加速し内破するところに、芸術的(あるいは倫理的)領域の可能性を見るのです。具体的にはどういうことか。

読者の作家性

「読者の作家性」ということを考えています。全く読まれない作品というのは無に等しいですが、たとえ読まれていても、作家性や作品性を読み落とされている部分は、やはり無に等しいのです。

ここで批評というのは、作品から過剰に読み取る営みです。じっさい、作家が批評をすることもありますし、少なくとも批評は、書き手と読み手の境界にあります。

よくあるプロ論は、プロの精神性を強調しますが、評価する側が認めなければ、現実に流通しません。そこの部分を「良い物は必ず認められる」という観念論で押し通してしまいます。しかし、アマ論、作家論に対する読者論が必要なのです。それは他者論でもあります。

剰余の贈与

等価交換なのだから、貨幣は何に使っても額面は同じですが、「無駄な物を買う」ことがあるように、価格と価値には落差があります。その落差を通じて、「剰余の贈与」を行えます。選挙の投票と同じことを日常的に行っているからです。

つまりこうです。誰しも、労働の場ではプロでしょうが、消費の場ではアマです。消費は巡り巡って誰かの労働を支えているわけですから、消費が向上する必要があります。だから、むしろ消費者に精神性が必要だと考えています。

日本人はお金の使い方が下手です。バブルのときに下手だったし、その後も上手になったとは思えません。外国のチップ文化がないのもあるかもしれませんが、相場を読むことしかできず、自分で判断して値を付けるということができない。

メビウスの輪

労働と消費、あるいは作家と読者は、メビウスの輪のようにねじれてつながっています。プロとアマという対比をするときに、前者が一次的で後者が二次的であるという普通の見方を反転することで、見えてくるものがあります。

クリティカルな部分をてこにひっくり返すのは、脱構築の手法です。しかし、ひっくり返すには、危機的な状況を理解して、その力を利用しなければなりません。だから、そのような言説を否定するのではなく、むしろ徹底的に進むことで、輪の反対の面に出るのです。