萌えと方向

萌えとはなんだろうか? −萌えの美学論「萌えと懐かしい距離」− - ロリコンファル

「萌え」と云う言葉について私が最も感じること、それは対象との距離感である。
「愛」という言葉と比べてみるとそれはより顕著になる。「愛」(愛する)という言葉
には対象への強いコミットメント(関与)の意志が感じられるが、「萌え」(萌える)
という言葉には、コミットメントの要素は愛に比べ薄く、逆に、自然と湧き上がる憧れ、
恋情のようなニュアンスの方は愛に比べ大きいように感じられる。

「愛」と「美」の二つの極があり、萌えは後者に近いという論です。これは、id:kagamiさんが以前から言っていることでもあるでしょう。引用元の文章が既に完成しているので、そこに私が余計なものを付け足すことはしませんが、関連して少し違う視点から書いてみます。引用元は距離の話なので、ここでは方向の話を書きます。

愛は相手の立場に立つことが必要です。全く相手の立場を無視した愛というのは、「身勝手な愛」であって、「本当の愛」ではないと言われます。愛の成立にはある程度の相互性が必要です。しかし、萌えには一方的な面があります。この一方性が相手に困惑を与えることがあります。萌え(あるいはやおいとか)の対象にされると困惑する。

「萌え」を一言で言い換えると、「夢中」になることだと思っています。憧れとか陶酔とか、「幻想」という言い回しも好きですが、一番一般的な言い方でしょう。そして、夢の中ですから地に足が着いていないわけです。逆に言うと、全く地に足が着いてない愛は認めがたいところがあります。これが、萌えの虚構性と愛の実在性という対比です。

こう言うと、愛の方が良いように思われるでしょうし、それに近代的個人という背景があるので、はるかに歴史が長いわけです。確かに萌えには(審美的なものを追求するために)軽薄で冷たいところがある――要するに愛情がない、あるいは一方的な愛情――ので、理想として採用しにくいところはあるでしょう。

表現の世界で考えますと、特定の作品や作家やアイドルなどをずっと追い続けていくのは愛があるでしょう。愛はトータルなので、長い時間を掛ける必要があります。ただ、それは個人的な立場としては良いのだけれど、市場全体をマクロに見たときに、一部の作品や作家がずっと愛されていくということでもあります。それはそれで、萌えとは別の残酷さがあります。

萌えのように、属性がありかつ美が見出せれば、誰が描いていても構わない*1、ということによって、新人の出る幕も出てくるわけです*2。もちろん、そこでは一部の属性・記号だけが萌えられるわけで、やはり同じ限界があります。

「全てを愛する」のように「全てに萌える」という立場もありえるかと思いますが、萌えは差異に萌えるので、全てを平等に萌えるというのは、少なくとも「夢中」という比喩を採用したここでは、理想としてありえても現実離れしています。「萌え」は子供が何かに夢中になるようなことなので、その何かを振り回す気まぐれな面があります。それが良くも悪くも可能性をもたらす面があると考えています。

*1:これが顕著なのは属性アンソロジーでしょう。もちろん作家買いしてるかもしれないけれど

*2:使い捨てを加速するという批判もありえるが