全体主義的社会は他者不在の社会である

モジュール化

黙認と容認の間には致命的な差異がある。この差異はくだらないといえばくだらないものなのだが、しかし社会はこれを簡単には放棄することができない。<他者>に隠れて行為しうること、これはどうしても重要なことだ。

あるいは、コッソリ隠れていようがどうしようが、規則を完璧に一律に徹底したほうが社会は「健全」だろうか。それこそ、法治国家のあるべき姿なのではないか。恣意的な運用を一切排した、ルールに基づく支配。それはおそらく非人間的な状況であろうが、別に非人間的で不味いこともないかもしれない。

なぜ、私的領域を塗り潰して公的領域を全面化してはいけないのだろうか。比喩としてプログラミング言語における変数を考えよう。変数には、「パブリック/プライベート(グローバル/ローカル)*1」のスコープ(適用範囲)というものがある。パブリック変数は、モジュールの境界を超えて、他の領域に適用できるが、濫用すると衝突が起きるため、良くない。

私的領域の隠蔽はモダンである。すなわち、近代的個人主義には、個人というモジュールのカプセル化ブラックボックス化という面がある。実際、法律には「思想の自由」「通信の秘密」など私的領域を保護する発想がある。また、表現の自由はあっても猥褻物は規制されるが、これは裏返しの私的領域の保護(公的領域で暴露されない)でもあるだろう。公私の区分と公権力の濫用の防止は国家も認めているのだ。

しかし、論理的に構築され機械的に動作するプログラムとは異なり、規則の運用にはヒューリスティックな恣意性がある。それは、見つからないようにする、あるいは、見て見ぬふりをする、という行為に典型的に現れる。時代劇*2に、立場上見逃せないが、見て見ぬふりをするシーン*3がよくある。そして、銭形平次の子孫だという設定の銭形警部が、「ルパンは大変なものを盗んでいきました」と言うセリフが印象に残るのは、私的な心情で公的な規則を見逃すという定型を、演劇的な形で裏返しているからである。

データベース化

ずいぶん前になるが、「運転免許証をIDとして使用し、たばこを買う自動販売機」を試験的に導入した地域があるというニュースをきいたことがある。その自動販売機では、運転免許証を使わないと、たばこが買えないのだ。未成年の喫煙を防止するためだという。

ここで変化したのは、「やろうとおもえばできるけど、やらない」という選択肢がなくなったということである。そもそもはじめからできないのだから。それはつまり、ゲームとおなじで、扉の前にたったときに、「ひらく」というコマンドがでて、はじめてその扉をあけることができる。コマンドがでない者はひらくことができない。わたしたちの生活の中に、そうしたコマンドが増えていくようになる。

しかし、ヒューリスティックな規則の適用の恣意性を排しようという動きがある。上の記事では直接言及していないものの、東浩紀の「情報自由論」における「環境管理型権力」の発想と共通するところがある。

自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)

自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)

(…)「飛ぶ」というコマンドがなければ、ゲームの空間のなかでは飛べないわけです。同じように、ある人が建物や広場に入ろうとしても、カードをもっていないとドアが開かない。ドアが開かないということは、つまり、その空間に入るコマンドをもっていないということです。倫理的にはすべてが可能だとしても、適切なコマンドをもっていないければ、現実には犯罪を犯せない。つまり、神がいなくても秩序を保つことは可能なのです。大きな物語の凋落のあと、セキュリティの権力が台頭してくることの背景には、こういう必然性があると思います。
(『自由を考える』p31)

「価値観の多様化」というフレーズは飽きるほど繰り返されているが、じっさい、社会の流動性が高まり価値観は多様化している。しかし、ポストモダンにおいて、多様化した価値観と秩序の維持はどのように両立するのか。東によると、「規律訓練型権力」から「環境管理型権力」に移行することによって可能になるという。環境管理型権力というのは、上の引用にあるように、主体と規律的なコミュニケーションをしなくても、物理的な環境を変えてしまうことで、秩序を維持する力である。

つまり、善悪ではなく可不可の基準に変えてしまう。具体的には、例えば監視カメラがそこら中に設置されるというような事態だ。共同体の道徳が衰退した現代における洗練されたソフトな管理をもたらすことができるので、その例は上の本に書いてあるが、現実にも広まっている。犯罪をなくす方向に向かうわけだから、反対するのが難しいというのは、上の記事にも本にも書いてある。

しかし、私は反対する理由はあると考える。それは、管理主義や監視主義は全体主義につながるからいけないのである。それは犯罪を見逃すからいけないのではなくて、むしろ規則自体が犯罪的な存在にまで暴走していくからいけないのである。灯台もと暗しで、犯罪は法で裁けるが、悪法は法で裁けないのだ*4。自動的に正しいルールを決めるルールというのは存在しない。

全体主義

全体主義化を指摘するだけでも十分だと思うが、なぜ全体主義がいけないのか、最後は更に踏み込んでみよう。ここで再び公私の区分の話が出る。全体主義的国家は、私的領域を抹消し、全てを国家が定める規則の元に地ならししてしまう。全体主義的社会はしばしば理想社会の実現をうたっているが、現実にはその反対のひどい国になることは歴史が証明している。

しかし、ではなぜ全体主義は行き詰まるのか。それは「大他者は存在しない」からである。どういうことか。生きた人間で身体を持たない者はいないように、公的権力も現実にはそれを担う私が必ずいる。そして全体主義は規則の権力性を強めすぎるために、官僚などの特権階級に属する特定の私が、全体を決定してしまうことになる。つまり、公の全面化を目的にしながら、結果的には私が主導権を取る。

これと対照的なのは民主主義だ。民主主義はベストな制度ではないが、他よりベターな制度だとは言える。民主主義は全体主義を反転した形式である(個人主義でもあるからその構図は自然だろう)。なぜなら、民主的な投票は、私の利益のために投票するからである。そして、私の全面化を目的にしながら、結果的には公(多数派)が主導権を取る。だからベターなのだ。最後に、ではなぜ目的と結果がねじれるのか。それは、私と公・自己と他者はメビウスの輪のようにつながっているからである。

*1:言語によりパブリックとグローバルで意味が違ったりするのだが、ここでは実際の言語仕様には踏み込まないで、比喩なので適当に捉えておく

*2:なぜ時代劇に多いのかというと、現代の刑事が簡単に罪を見逃してしまうと、抵抗があるのかもしれない。また、まだ人情がある古き良き時代という懐古的な面もあるかもしれない

*3:江戸所払いなどの軽い罪にする、大岡裁き的なものも含まれるかもしれない

*4:もちろん、裁判所が憲法違反で条例を無効にするなどの場合があるが、その憲法自体は国民の承認がないと変えられない