「働かなくても食っていける社会」についての考察

労働と遊戯

アンカテ(Uncategorizable Blog) - 働かなくても食っていける社会がもうすぐやってくるよ

つまり、「生活保護でかなりの贅沢をして暮らせるけど、『働く』為には、ものすごい才能と努力が必要になる社会」である。

MouRa|東浩紀、桜坂洋|ギートステイト

ゲームプレイ・ワーキング(GPW)あるいはプレイワークは、特定の知的作業を、極小単位に分割し、ネットワーク上に公開し、本来の作業とまったく異なった印象を与えて多人数に匿名的に実行させる、匿名集団単純知的労働の一種である。

前者の記事が労働と遊戯の希少性の反転、後者の記事が両者の境界の解体、というビジョンを示している。しかしそもそも労働とは何か。対価のある行為のことだ。対価がなぜ発生するかというと、資本側にとっての価値を産むからだ。その代わり多くの労働は単調作業であり、不自由である。可能性の束としての自由は目に見えないので、時間で計測することになる。これが近代的な労働の大雑把な見取り図で、下表のようになる。

価値 自由
労働 あり なし
遊戯 なし あり

第三の選択肢

もちろん価値もないし自由もないという最悪の事態はありうる。例えば自由業では、利益を生まない「タダ働き」状態、更にはマイナスになることもよくあることだ。また遊戯が不自由になるという現象もまたよく見られる。例えば、RPGのレベル上げがかったるい、といった「ゲームの作業化」である。

ここでその逆はないだろうか? ある程度の価値もあるし自由もあるという中間領域である。結論から言えば、そんなうまい話があれば皆やるので、市場の調整が働いて、価値が下がるか、自由度が下がるか、一部の人間しかできないか、いずれかに落ち着くだろう。だが例えば対価が労働の50%で、自由度が遊びの50%、というようなトレードオフでしかないとしても、そのような第三の選択肢には魅力があるのではないか。それをとりあえず「(創造的)仕事」と呼んでおく。

仕事と創作

ここで言う「仕事」は、労働と遊戯の中間に位置する。例えば、現代での「クリエイター」というのは、労働の価値と遊戯の自由が両立する理想的な、創造性のある仕事として捉えられている。だから人気の職業になるわけだ。しかしもちろん競争が働き、そのような職に誰もがなれるわけではない。芸能人などもそうだが、ごく一部の人間に限られる。

ここで、冒頭で引いた「ゲームプレイワーキング」に戻ると、これは仕事性、仕事の創作性を高めるシステムの発想だと言える。労働か遊戯かという対立ではなくて、どちらの性質も備えている。では、それが理想的な未来かというと、おそらく「ギートステイト」はディストピアの側面を描くだろう。なぜそうなるかというと、企業や資本の論理の元で動いているからだ。

創造的消費

労働と遊戯の対立の調停だけではまだ不十分なのである。それだけでは両者を媒介する企業と資本に管理されるしかない。そこで、労働と消費という微妙に異なる座標軸を考える必要が出てくる。消費にも生活と遊戯、価値があるか自由か、の対立がある。日常必需品などは前者だし、娯楽などは後者に属するだろう。

ここでも、「創造的消費」という第三の選択肢を考える。具体例としては、ブログを書いたりすることにはそういう面があるだろう。また「プロシューマ」などの概念は関連があるかもしれない。「創造」などというと大袈裟だが、実際に有料サービスまたは広告で利益を出しているから、「はてな」などのブログサービスの会社が成立しているわけだ。