「図解・キャラ萌えの構造」に対する批判に答える

萌え理論Blog - 図解・キャラ萌えの構造


どうも読んでいて引っ掛かるところがあるので、今年中に上記の主張に寄せられた批判を検証しておきます。

型と単位について

ロリコンファル - 老婆心ながら、忠言させて頂ければ…

誰々に似ているから君が好きみたいには、私は思わないというか、
それって、その子に対して凄く失礼なことじゃありませんか(^^;


この主張自体は妥当でしょう。愛情の対象は固有の人格であって、特定の型(type)に対するものではないというのは、普通の感覚です。


ロリコンファル - 萌え系とラノベ系 -エロゲと坊っちゃんと伝統の型-

その型を、とても、暖かいものとして私は感じるな――。
萌えるって、この暖かさを感じることなんじゃないかなと、私は思っています。


しかし、kagamiさんは以前にこういうことも仰っています。一見して型にはまっている人物造形に、倫理的な欲求と表出を見出しています。私としてはどちらの主張も妥当性があると思いますが、しかしこの二つの主張の整合性は気になるわけです。もちろん、「型」という語の使われ方は文脈によって細部が違うでしょうし(あくまで固有性がベースだとか)、型による表現の中で、成功するもの(暖かいものを感じる)もあれば、失敗するもの(あんまりにも型に嵌りすぎた人物造形だと、それはそれで醒めてしまう)もあるでしょう。ただ、「型は善玉=倫理的で暖かい」「キャラは悪玉=消費的で冷たい」という二分法になってしまうような場合には、違和感を覚えます。

「萌えを俺が定義する!お前達はそれに従え!」


いや、ローカルな定義なので、従う必要とかはありません。私がやろうとしたことは、キャラという単位系を作ることです。例えば「1cm」のような長さの単位があります。物差しで直接重さを量ることはできないように、キャラにあまり関係ない要素もあるでしょう。例えばアニメには音楽という要素もあります。作品にはキャラしかないと言って視野を狭めるのと、キャラに注目した場合に、より精密に記述するのとでは、別のことです。ここで「精密」というのも「正しさ」とは別です。目盛が細かくても間違っている物差しはあります。

論理について

物書きfrom A to Z -  萌えのクオリアは何処に

長門綾波に似ているから萌える」

長門綾波に似ていないから萌えない」


その二分法では、例えば「長門は眼鏡を掛けているから萌える」という場合を想定していませんね。後だしではありますが、さすがにもう少し複雑なモデルを想定しています。「綾波キャラでなければ綾波萌えはない」「綾波萌えがあるキャラは綾波キャラである」という感じです。更に言えば、「X(キャラ)萌えとはXキャラに対する萌えである」のように定義します。


注意しておくと、上の命題一つだけに注目すれば、同語反復的で無内容に見えるでしょう。しかし、長門綾波キャラならば、長門に対して綾波萌えが起こりうるので、登場人物とキャラを区別した記述ができます。例えば、「綾波萌え(任意の別キャラ)<長門萌え」が成立したときに、その読者には「長門のキャラ立ち」が生じている、というように、体系的な関連性を持って記述できます。そこに意味があるわけです。


ちなみにこれは論理構造のモデルで、事実(に関する科学的仮説)を述べているのではありません。「100cmだが1mではない物がある」という反証の実験をするのは困難でしょう。つまり、私のやっていることは、言葉を整理しているだけで、現実の因果関係は問いません。だからこれを拒否したい場合は、単にこのモデルを使わなければ良いのです。

sirouto2さんの言説が機械的な、言わば何らかの法則を打ち立てたような印象を持ったからです。
(コメント欄)

私は、そういった「固定化」の傾向が好きにはなれないです。
(コメント欄)


全く逆に、何か事態を変えるときに、全体像を可視化する記述がなければ、情況は惰性的に固定化するのではないか、と考えています。ダイエットするときに体重を記録したり、スポーツ選手が陸上でタイムを計ったりするでしょう。もちろん図式やラベリングに囚われることもよくありますが、全く一切の定型的記述を否定した場合に、何が変わっていて何が固定しているのかすら分からない、ということが起こるでしょう。それに、そもそも「昔はよかった」的な記述なども、大雑把ではあれど、法則の記述だと思います。

まとめ

もう一度簡単に私の意図を整理します。現実を捨象して内部的に整合性を持つモデルを作りますが、それが現実と完全に一致することはありえないし、そのモデルに収まらない外部は当然あります。しかし、モデル化に反対すれば、自由で暖かい現実が訪れるようなことはありえないでしょう。固定化した現実のモデルを示すのであって、モデルがあるから現実が固定化するわけではありません。