生の無条件の肯定のために2.0〜プラスの肯定〜

livedoor ニュース - 心臓病女児募金活動に ネット上で批判噴出

心臓病に侵された女の子への救済募金をめぐって、2ちゃんねるなどの掲示版が「祭り」状態になっている。

404 Blog Not Found:善意の値段

逆に声を上げないサイレントマジョリティーは静かに座して、いや床に伏して死を待つべきなのだろうか。

404 Blog Not Found:0.5秒分の価値

集めた寄付で助かったかも知れない命がもっと多いという可能性は考えられないのか。

partygirlの日記 - さくらちゃんと、途上国の子供の命の値段

数十円のワクチンで、命を落とさずに済む子はいます。
なのに、ひとりに一億ですか。

(記事内の引用。本文の主張は別)


それは一理あるし、そう思わなくもないですけど、


アルゼンチンのプロゴルファー|2chテラワロス

すると、ビンセンツォは笑いながらこう言った。
「そうか。そいつは今週で一番の良い知らせだ」


しかし、このコピペを見ると、一人も救われていないにも関わらず、なんだかヒューモアによって救われる気がします。「途上国の子供が〜」という論理からすると、これほど愚かな行為はないわけですけどね。


ここギコ!: 「その募金が別のことに...」という議論は、あまりにナイーブすぎる

発展途上国の教育環境改善に募金するのは、救える命の数がゼロだから悪なのか。

「で、みちアキはどうするの?」

寄付しない自分を責めてくるものたちから一時的に心を守ろうとしているのだろう。


そもそも批判者たちも含めて、われわれは余裕のあるお金を、途上国への募金に全部使っているわけでは(たぶん)ないでしょう。「数十円のワクチンで、命を落とさずに済む子」がいると知っていても、他人を一人も救わない趣味的なこと、なくても死なないことに使っているのではないでしょうか。それが募金をした途端、「途上国の子供たちは〜」と批判されるのは(批判の対象は募金を集める側だけど)おかしい気がします。「1億でどれだけの命を救えるのか〜」という論理でいくなら、税金が数十億数百億数千億が無駄になっている場面が先に批判されるべきでしょう。


といっても何かここで、命の価値を決めたり、対立する主張を論破したり、誰かを倫理的に非難したりすることが、この文章の目的ではありません。そうじゃなくて、誠実で良心的な人ほど「本当はこうした方が良いのではないだろうか」と迷ったり悩んだりしそうなので、プラスのものを肯定するために書かれています。何に募金するかは募金する人が決めればよいでしょう。件の病気の子にしてもよし、途上国の子供にしてもよし。素朴な考えとして、マイナスのものを先に否定するのが自然だと思うのです。