生の無条件の肯定のために2.0〜いじめに絶望して自殺するのは早計〜

アンカテ(Uncategorizable Blog) - 人権を失ったまま生き続けても、そんな命に意味はない。

人権を失ったまま生き続けても、そんな命に意味はない。


いつも鋭い考察をするessa氏だけど、この主張にはちょっと賛同できません。命はそれ自体に意味があります。「これこれの権利がないから死ぬ・死ね・死のう」というのは早まっていると思います。「人権は後で何とかするから命を大切に」というのは平凡な答えですが、間違ってはいないと考えます。失った権利を回復させる手段はありますが、生き返ることはできません。


もちろん「命は大事」と言えばそれだけで何でも何とかなるわけではないけれど、さしあたって命あってのものだねでしょう。末期ガンでも安楽死せずに何が何でも生きなくてはならないのかとか、難しい問題もあるとは思いますが、とりあえずいじめで自殺するのは、非常に命がもったいない。末期ガンと違って、その場さえ切り抜ければ、後は何とかなるからです。

彼が最終的に絶望したのなら、それは本当に可能なことを全てやり尽くしたのだと思う。


いや、可能性は残っています。単に学校に見切をつければいいと思う。教育が大切だということと、何が何でも学校に行かなくてはならないのは別のことです。親がなくても子は育つというのですから、まして学校くらい行かなくても育つでしょう。学校にいる間はそこが全世界のように見えるかもしれませんが、社会に出た後で振り返ればちっぽけな空間だと思えるようになるでしょう。飛空挺を手に入れるまでの序盤のフィールドに過ぎません。だから学校に行くか死ぬかという二択は大変つまらない。乾涸びそうな井の中の蛙は、早急に大海へと脱出するべきです。

人権は命より大事なものだ。(…中略…)
人権侵害を止める唯一の手段が自殺だと思うなら、死んだほうがいい。


これは極端な主張のように思われます。この対極に「いじめは個性」「いじめられた側が悪い」「いじめられるのは自己責任」というような意見もあって、それも違うと思う。「運動会の競争で順位をつけずにみんな一緒にゴールする」「廊下に立たせるのは体罰」というようなもの凄く細かい権利を追求するのに、いじめで自殺しても、仕方ないとか、死んだ奴が悪い、というのは、順番がおかしいような気がします。まあ教育の専門家とかではないですが、しかしごく素朴に、生きる権利が人権の一番ベースにあると考えては、なぜいけないのでしょうか。