絵に関する二項対立的思考

作者/読者

東京横浜オーケストラ - 絵描きと絵描きでないもの間に仕切られる絶対的な何か

絵を描けない人は、果たして創作者と対等な目線で絵を楽しんではいけないのだろうか?

いや、そんなことはないですよ。確かに絵師の労力を考えずに、観客席が一部にだけチヤホヤしたり、更には編集者的に仕切ることに対して、不満な場面も多々あるかと思います。というかコミケの「お客さんはいない」的発想が極端化してしまったのかもしれない。創作してみないと分からないこともあるでしょう。しかしだからといって、作り手と受け手を比べて、作り手の方が偉い、という優越化・特権化は不毛でしょう。それによってコミュニティが凄く向上していったりしないような気がします。

精神/技術

うどんこ天気 - 何でそんな絵に萌えるんですかって言う奴がダメ

「技術はいまいちだが萌え」

いや、少なくともその場にいた者を萌えさせる技術はあったと考えてもいいでしょう。他にも笑わせたり怖がらせたりする多種多様の技術があります。三峰徹には三峰徹という技術があると思う。真の技術は一つのみで、その周辺に技術はないけど何となく萌えるものがある、という発想は、先の作者(技術がある人)/読者(技術がない人)の対立と、実は同じ構造をしています。

包丁人味平で「料理人は得てしてテクニックや技術を磨くことばかりに腐心する様になり、料理を食べる人のことを考えなくなるのだ!!!」「ガーン!」

いや、よくあるいい話なのでツッコミづらいんですが、必ずしも先の「鼻くそほじりながら描いただろ」という人が「料理を食べる人のこと」を真心で考えていたから、ギャラリーが萌えたのだとも限らないでしょう。もしこれが単なる偶然と冷たく言い放っているように聞こえるならば、熱心にやっているけれども、自分が食べることを熱心に考えていた、ということはありえるでしょう。

本質/疎外

Screw Pile Driver - 絵を描くと言うこと

本来、絵というのは誰でも描ける物である。目で見たもの、心に思い浮かべた物を、そのまま手で動かして何かに描くだけ。

いや、「本来誰でも描けない物」ですよ。誰でも描けるようにはなりますが、それは言葉が誰でも喋れるようになるのと同じことで、野生のまま放って置いても、本能的に生得しているから描ける、というものではないでしょう。実はいま眼前に広がる光景ですら、訓練して習得している視界なんです*1。デッサンというのは、別に本来の原始の能力に戻る方法ではなくて、一つの写実的言語の習得なんです。

内容/形式

MORI LOG ACADEMY: センスとテクニック

絵が上手いという場合、それは、頭に思い描いたものが優れていて、しかもそれをキャンバスに写すだけの技巧を持っていた、という2つの要素からなっている。

いや、センスがテクニックに先行しているとは限らないでしょう。例えば、写真(映画でも)をどう撮るかというイメージは、写真の発明以前にはそうはなかったでしょう。印象派の絵は絵具の進化の前からイメージだけはされていたかも分かりません。CGなんかはソフトを使ってみることで、イメージが湧いてきます。もっというと、未開の民族には地図を描くイメージすらない場合があります。

二項対立とその脱出

今まで取り上げた思考は、実は全く同じ根を持っています。これを小難しく言うと「二項対立」といいます。要するに「あれかこれかどっちか、あれはこれよりいい」という、ある意味常識的な考え方です。しかし、絵描き(特定の専門家)とそうでない者は、本当に、絶対的に、何がどうあっても、絶対絶対、異なるのでしょうか。それが違うこともある、ということを最後に示しておきます。


実は受け手も作り手です。例えば現在の萌え絵では323絵の評価が高いわけですが、それは323絵を評価した審美眼を持った読者がいたから、今日の323絵系の絵師が上手いと言われるのでしょう。もし全然売れてなかったら今日の地位はない。作者が読者より上にいると思ったら、その「上」という基準は読者が作っているのです。王様が王様なのは家臣がそう見ているからです。ただし、それはあくまで個々の読者をマクロ的に見たときに成立する見方で、一人一人が描けないという事態は変わりません。


たぶんほとんどの人が、一番上手い絵師が頂点にいるピラミッド型のヒエラルキーをイメージしていると思うんですが、実はメビウスの輪のように、作者が読者を産み、読者が作者を産む、というインタラクティブな要素*2があるのです。別にこの考えを新たに押し付けようというわけでもないですが、既存の思考を一度くらい疑ってみてもいいでしょう。

*1:手術を受けてはじめて眼が見えるようになった人は、すぐわれわれと同じようには見えない

*2:これが伝統的な芸術なら権威の力によって十分隠蔽されていますが、視聴率からジャンプのアンケートのようなものまで、近代以降はむしろその相互依存を積極的に顕在化する動きがあります