行間を読むということ

「夏とカキ氷と俺とセミ」


こういうのをあんまりベラベラ喋るのって野暮だと思ってたんですが、この前オチだけで選んでるんじゃないかという批判があって、潜在的に他の人もみんなそう思ってるんじゃないかと不安になったので、やっぱり書いてしまうことにしますが、実はセミに賞をあげたのは、オチを評価したからではないんですよ。いや、もちろんオチがないよりある方を評価しますし、それが結構なウェイトを占めてますけど、それより重要なことは、行間を読めることです。どういうことか。

でも、全体的に殺伐とした話の中で、「すこしの間、泊めて〜」のセリフがとても光ります。なぜなら、自分が生きるのが「すこしの間」なのが分かっているという風にも読めるから。


評でも書いたんですけど、二人(匹)が死ぬという殺伐とした話だけれども、意外とヒューマンなところがセミにはあります。それは一回結末を見た後で読み返すと、「すこしの間〜」というセリフが自覚的なものに見えるだけではなく、それを聞く(既に独りで死んだ)俺の方にも感情の動きを予想できるからです。最初は窓から追い出そうとしたので。そういう奥行きがあるところを評価しました。それは当初単なる私の深読みではないかとも思ったんですけど、そう読めるようになっています。どういうことか。

「すこしの間、泊めてほしいセミ。長い地下生活が終わって、やっと出てきた地上セミ


とりあえず服を着替えさせ、まあ俺も暇なので、しばらく置いておくことにした。
セミはカキ氷が好きだった。
朝から出かけると、(…)


800字しかないのに断章で切るのはよくないと言いましたし、意味のない空白行も似たようなものなのですが、ここでの空白は間を作るために必要なものでしょう。セミは三回一行空けがあって、「つくづく安いやつだった。(…)八月も終わりに近づくと、」は時間が飛んでいて、「セミは息を引き取った。(…)俺は屋根の上にいた。」では、この世とあの世という風に、更に複雑に時空間が飛んでいます。それに対して「(…)とりあえず服を着替えさせ〜」は同じ時空(たぶん同じ部屋にいて、一日…いや「服を着替えさせ」と同じ文だから、一時間も経っていないはず)にいます。例えば次の「セミはカキ氷が好きだった。」か「朝から出かけると、」との間を空けた方が、時間処理的には合っています。だからやはり、感情の間に見えてくるわけです*1。まあ本当はこういうのもクリシェ(常套手段)の内なんですが、募集開始から一日でそういう仕掛けをポンと出してくるのは、けっこう鋭いと思う。


これはもう空白で飛ばすしかないところです。「自らの運命を悟ったかのように、彼女は哀願するような顔で言ったのである。思わず可哀想だと心を動かされた俺は〜」とかやったらもう全然ダメですね。そもそもセミを擬人化する時点でリアリズムから外れていますから、妙に心理を分析したり内面を独白したりすればするほど、バカバカしくてクサイものになってしまいます。叙述と語り手の解離というか。もうちょっと伏線とか欲しいし、全体的に荒削りだけど、そういう一番大事な部分をゴチャゴチャ説明しないところにセンスを感じました。別に何か難しい言葉で語っていないけれど、言葉の配置によって上手くデザインしています。意外なオチだけが良いわけではなくて、そのオチをテコにして作品全体が違う形に見えてくるというのを評価したわけです。そして、図と地が入れ替わる反転図形のように、空白行に眼をやることによって、異なる意味が浮かび上がってくるという、そういうダイナミックな構造が小説的な空間を形作っています。*2

*1:マンガ夜話攻殻の空白がある構図の話があったけど、ああいうのに近いことかもしれない

*2:書いてから思ったけど、ゴチャゴチャ言ってしまって、やっぱり蛇足だったかもしれない。