なぜオタクはキモイのか

倒錯者としてのオタク

人力検索はてな - オタクがなぜ気持ち悪がられるのか教えてください。


それはオタクが倒錯者だからです。


まず、宮崎勤のような犯罪者がオタク(おたく)全体を代表するかのようにレッテルが貼られた歴史があります。それ自体は不幸だし不当でもあると思いますが、既に多くの者が語っているので、ここでマスコミの影響を繰り返し語ることはしません。それとは別に、オタクは倒錯者の系譜に属していて、倒錯者は昔から気持ち悪がられていた、という話をします。


倒錯者のうち、特に性倒錯者は気持ち悪がられます。そのことが最初のレッテル貼りにも影を落としています。これは差別的な面を多分に含みますが、そうしたことの是非とは別に、そういう構造自体を捉えておきたいと思います。すなわち、規範的ではなく記述的に語ることを目的にします。しかし、記述も必ずある視点からなされ、この記事が価値中立的であるということは意味しません。

倒錯と変態

一般に倒錯とは、目的と手段が転倒して、手段を目的のように錯覚する現象を指します。さらに、それによって手段が通常ないほど逸脱している様子を変態と言います。具体的には、自分は汚いアパートに住んでボロを着ているが、給料をつぎ込んだ外車はピカピカだとか、犬に服を着せるような人を見たときに、本来の主従関係から転倒しているように感じます。道具やペットの方がご主人様になっている。しかし、これは変態というほどではなく、常識的な倒錯の範囲(つまり共同体の公共空間で冗談にできる範囲)に納まっています。


SMの女王様もこういう転倒のバリエーションですが、性愛が関係するものについては性倒錯として下位区分します。例えば女性の下着に執着するのはよくある変態行為ですが、それも目的と手段の倒錯と関係しています。つまり、異性を愛したり生殖をするのが本来の上位目的なのだけれども、その手段に関連するもの(下着を脱がせる)に執着するから変態なのです。子供が大人になるときに、もう子供には戻れないことと、男女が別であることを意識します。この喪失感が去勢ですが、フェティシズムはそれへの部分的抵抗になっています。つまり、手段に執着することで目的への圧力から消極的に逃避し退行するという面を持っています。


性倒錯者は、現実に対する虚構(ピグマリオニズム)、大人に対して子供(ペドフィリア)、異性に対して同性(ホモセクシャル)、を性的対象に選びますが、それは共同体の禁忌になっています。なぜ禁忌なのかといえば、文明度の低い時代では、食って子孫を残すという目的が優先されないことには生き残れません。つまり、狩りをせずにコレクションにふけったり、同性愛しかなかったら種を維持するのが難しくなります。ただし、こういう視点も社会構築主義から批判することが可能でしょうし、単に物理的な制約ならそれが消えた現代ではこだわることもない、というオルタナティブな視点もありえます。

倒錯と不気味なもの

根本的な疑問に遡ると、では倒錯はなぜ気持ち悪いのか。さらに、そもそも気持ち悪いとはどういうことか。「不気味なもの」とは、見慣れた対象が違う場所に組み合わされているものです。「崇高なもの」と対になります。不気味なものの代表はモンスターで、生物のパーツの組合せで出来ています。人間と動物の組合せも多いですね。またそれらは空想の産物ではありますが、異民族や奇形児のイメージも反映されています。今回の主題ではないので省きましょう。


子供は倒錯的な発想を自然にします。遊びには目的がありませんし、童話は子供のアニミズムに合わせて動物や物を擬人化・モンスター化します。オバケを信じていることもあります。異性への性的なものを含む恋愛意識も思春期頃からでしょう。マンガ・アニメ・ゲームなどは高度化したとはいえ、基本的には子供が遊ぶためのものというのが、まだまだ世間一般の発想でしょう。他に模型とかもそうですし、サブカルやB級文化的なものも含めて、大人の文化とは見なされていないでしょう。


そういうものとオタクは親和性が高いわけです。そしてオタクは子供ではなく大人です(子供のオタクはいないというテーゼはなぜかあまり見ないが、本論ではそういう立場に立つ)。だから気持ち悪いと思われるわけです。これは性倒錯者の女装(男装)に対する子装とでもいうか、小児的な欲望を大人になっても維持しているわけです。(敬礼これ出たよ〜のコピペのような)極端に虚構的で演技的な、つまりは子供じみたコミュニケーションをオタクは取るわけです。それにオタクの作品もそのような「お約束」で出来ています。

レッテルの構造

「キモオタ」はレッテルですが、他のレッテルと区別してみましょう。例えば、DQN(不良)は倒錯していないので、ダサいとは言われてもオタクほどキモイとは言われないでしょう。DQNの暴走族やその上位クラスであるヤクザなどを見ても、縦社会になっています。DQNは不良や非行として排除されてはいますが、そのベクトルは早く大人になりたい、だから反抗するという方向で、子供のままでいたい、だから抵抗するというオタクとは逆です。


障害者をキモイというのには倫理的抵抗を感じるでしょうが、オタクに対しては抱かない。それは障害者は倒錯しているわけではないし、主体的に選択したからではないからです。対してオタクは主体的にそうしてるのであって、いつでも止められます(環境の問題もあるが、太っている人が痩せられるはずだ、というのと同程度の扱いでそう見られています。同様に同性愛者は異性愛も可能でしょうが、性同一性障害*1という風に最近では障害のカテゴリに属しています)。


そして性倒錯は倒錯の中でも特にキモがられます。切手や模型を集めているだけなら、クライとは言われてもキモイとまでは言われないでしょう。でも例えば、アニメの女の子のような虚構の対象を性的な対象にしたりするのは、昔から禁忌なのです。性倒錯でなく純粋に倒錯者として見られているのが、ギークのような技術系オタクでしょう。「オタク」というより「マニア」が相応しいかもしれません。

結論

整理すると、オタクは倒錯者に分類されます。倒錯者でも子供は気持ち悪くはありませんが、大人になっても子供の文化を好むオタクは、共同体にとって不気味な存在として捉えられます。しかもそこに性倒錯が加わると、変態性が生じます。だから気持ち悪がられます。オタクは倒錯者だ、倒錯は気持ち悪い、従ってオタクは気持ち悪いというわけです。


これだけで終わると、オタクは気持ち悪いと差別されて当然というように受け取られてしまうかもしれません。そこで最後に倒錯について論点を追加しておきます。倒錯は病気ではありません。一般の人にも自然にある傾向です。例えば、ドライブで車を運転するのは、どこかに行くための手段というより目的そのものです。山登りもそうです。そこに山があるから登るわけです。「○○式」のような儀式は現代でも残っています。


倒錯的に感じるものを全部排除しようとする社会は、全体主義的な社会になります。極端に目的論的な思考は、自分にとっての異物を許さない、排他的な共同体を作ります。もっと端的に言うと、倒錯を許さない社会の代表として、国家が戦争(総力戦)をしている状態があります。

*1:同性愛者と性同一障害は別物であるとの指摘を頂きました