祭りからライブへと進化するハルヒ

アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』を今まで見てきて、感心はしても感動はあまりしなかった。例えば、放送第9話「サムデイインザレイン」の長門の読書シーンの長回しは良くない。同様のシーンではエヴァのエレベータを思い出すだろうが、あれより長いし一人しかいないし行動が読めるので間が生じないのだ。例えば誰かと二人きりであれば、沈黙は二人の関係性に転化する。またエレベータという設定自体が、ふだん沈黙する経験がある場所だろう。だから例えばカメラに背を向けて座っているハルヒが一言二言発するとか、その上でもうすぐ誰かが帰ってくるのを待つとか、作画も台詞もそれほど増やさず原作とも衝突しないでも、工夫し想像させる余地はいくらでもある。


ハルヒのこれまでの需要のされ方も、「放送話数と構成話数が〜」とか「原作のどこどこでは〜」とか「公式サイトのどこどこに仕掛けが〜」とか「ラジオから聞こえている台詞は〜」とか「長門が読んでいる本は〜」とか「長門が打っているソースコードは〜」とか調べて解読するものが多い。それが遊びの仕掛けとして凝っていて面白いのは分かるけれど、アニメの生きた面白さではないと思う。それは、アニメの放送が終わってから語る面白さである。まずアニメだけを見て内容が分かるというのが土台にあって、その上で色々謎本的な読みがあるのはいいけれど、もしその語りが主になってしまうと本末転倒さを感じるだろう。


だが、放送第12話「ライブアライブ」は面白い。これはアニメの生きた面白さだ。ハルヒがライブをするというシンプルな話なのに、感動する。そこには語りではなく歌がある。


歌は聴けば分かるので解説するのは野暮なのだが、語れる部分だけ語っておこう。まず、歌と言えば放送第1話の「朝比奈ミクルの冒険」が記憶にあるだろう。(原作や他の知識は前提にしないが、アニメ版の放送は前提にする)そこではわざと下手に歌い、わざと下手な画面を作り、自主制作映画の雰囲気を再現するという実験的な回だった。もしその一話だけで終われば単にネタで終わるところだが、十二話で時計を巡るように円を描いてハルヒのライブにつながるところが上手い構成だ。時系列上は同じ文化祭でくっついているので、当然意図的に離した配列だろう。


ここで、映画やライブというのがポイントになる。なぜなら謎解きをどんなに複雑に配置しても、原作を知っている視聴者はそんなに驚かない。しかし、声や画面はアニメ固有のものなので、その臨場感までは先回りすることができない。つまり、先に消費できないネタを持って来ている。原作を既知の視聴者もライブは初体験なのだ。CDを買って曲を聴いているがライブは初だというような感じか。しかもこれは単なるたとえではなく、実際に晴れハレのCDが売れているので、視聴者はまるでハルヒが記念コンサートを開いたような印象を受ける。この作品外の現実とのリンクが面白い。メタフィクションというのは中二病のような頭デッカチのものではなくて、こういう僥倖によって立ち上がってくるものだと思う。


それだけではない。(「サムデイインザレイン」を除いて)一話からずっとキョンの一人称視界を離れず、くどいナレーションが常につきまとっていた。しかし、ライブではキョンは例外的に内語をも黙らされ、視聴者は開放感を味わう。最初のミクルの冒険ではずっとくどい語りに支配されていた。それはつまり、ハルヒキョンにとってのドンキホーテ的キャラに過ぎないということだ。ところが、ライブではその語りの支配から解放されて、ハルヒと改めて出会い直す。(元の時系列は近いので、この邂逅はだまし絵的なトリックでもあるが)今までキョンはずっとみくると対比されており、第一話でもみくるが劇中劇の主人公だったように、キョンの語り=価値観ではハルヒよりもみくるが良いとしたものだ。しかもハルヒがみくるにセクハラするといったシチュエーションによって温存される。ライブの直前でも、「あの野郎」というキョンに台詞にそれがよく出ている。それがライブでは、超監督からボーカルに、団長から代理に反転して、同時に二人の関係性も変わってしまう。キョンはいわば素のハルヒに接する。やっと先入観から自由になれたのだ。


第12話はトリビアを全く知らなくても、アニメだけで内在的に成立している。今回の放送はすっきり腑に落ちた。もちろんこのことは、ここで語ったように理屈で理解しなくても、自然と感じるように演出されている。エヴァと後続の作品が後になるほど破綻するのに対して、後の方でジグソーパズルが完成するタイプの作品というのは、ちょうど反転していて興味深い。『憂鬱』でも朝倉が暴れて話が動くのは後半になってからだが、出だしがつまらないと飛ばされてしまうから早く話を動かせというラノベの一手法を無視しているのも興味深い。今まで凝り過ぎと思っていた問題点(くどい語りとか)をことごとくひっくり返して逆手に取ってみせる今回の手法は鮮やかだった。