物語における場所+時間

エロゲにおける選択 −選択の重みと真実の世界−
場所と時間からの自由 −エロゲプレイヤーはDIOである−
物語における「場所」と「時間」の諸問題

全員助けられないからこそ、その選択と展開に重みがある


前回の反復になってしまいますが、ゲームは反復してプレイできるのでコンプリートすることもできる、すると全員助けられる。というか、誰を助けたのが事実なのかも分からない。いや、可能世界を部分的に見ているのがプレイヤーで、どれが事実ということもなく、選択は視界の操作でしかない、とするといちおう矛盾は収まりますが、その線では今度はそもそもプレイヤーは助けたり助けなかったり能動的に行動できないということになります。

私は私の真実をエロゲのなかで選んでしまうので、プレイヤー=傍観者
ではなく、主人公=私自身というイメージが強いですね。


そのときそのときの主人公の視点に同化すれば矛盾は感じないでしょうね。三人称的に引いた視点で主人公を見てしまうと、上述のような感覚が出てきます。これはドラクエ的な(一人称)視界かFF的な(三人称)視界かみたいなプレイのスタイルの違いかもしれません。どちらかというと私は後者の視点で見ています。総当りは嫌なんですけど、バッドエンドも覗いてみたいと思ったりして、まあアンビヴァレントな欲求ですね。

プレイヤーはゲーム世界の時間と場所を
メタ的に超越しながらなおかつゲーム世界の存在でもある二律背反的な同一存在
である訳で、物語で描かれる主人公をそういった”プレイヤーに近い二律背反的同一存在”
(ゲーム内におけるゲーム内ルールに縛られた普通の人間を超えた存在としての主人公)
に近づけることで、主人公とプレイヤーのシンクロ率は上昇するように思います。


まさにそうですね。ゲームのプレイヤーは境界的な場所にいて、その両義性をどう活かすか、主人公と同一化させるのか、あるいは解離させるのか、そこら辺がエロゲひいてはゲームという表現の可能性ですね。東浩紀氏の考察があるように面白い題材なのでこれからも考えていきます。

『悪夢』と『絶望』の比較によって明らかになるのは、「場所」は「時間」によって固定される、という当たり前といえば当たり前の事実です。死ぬことによって終わる『悪夢』と終わりのない『絶望』の違い、これが二つの作品の「場所」についての感覚の違いを生み出している。携帯電話はどこでもイベントの起こる「場所」に変質させるけれど、その「場所」は電話がかかってくる「時間」によって「そこ」に固定される、ということですかね。


なるほど、死で終わるから『悪夢』で、終わりがないから『絶望』、ですか。場所に時間を絡ませると、非常に面白い展開になりますね。携帯電話は場所を均一化してしまう。だからミステリでも電波が届かない〜とか携帯を禁じ手にするわけですね。ひぐらしの昭和という時代設定の理由には携帯を避けたのもあるでしょう。ミステリでは時間の感覚が凄くありますね。誰かが死んだり謎が解けたり、後戻りしないで一方向に進むので。対してラブコメだと無時間でグルグル回っている感じ。色々興味深いところです。