オリジナル=ノイズ論

オリジナリティ1.0 −アウラ=ノイズ−

この考え方は感染全体を一つのオリジナリティとして見る考え方だと思うのですね。


全く仰る通りです。萌え要素を無意識レベルで交換する集合的な作家群を想定しています。個々の同人などの二次創作物を見れば作家性は全然ないですが、例えば分量的には一人の作家が書く十冊の単行本に、百人の同人が描く百冊の同人誌が対応するわけです。その百人単位で見れば、作家性はあると思います。分散コンピューティングでエミュレートしているみたいな感じです。もちろん同人でなくてメディアミックスとかエロゲの流行でも同じです。しかも、そもそもアニメやゲームは集団制作でしょう。だから公式の集団として正規化されているかどうかの違いでしかないわけです。

言語化(普遍化)できない、
パターン化不可能な剰余が個々の作品には必ず存在して、それが模倣・編集する時点で、
失われると思うんですよね。パターン化不可能なコピーできない部分はノイズとして
排除された形で、パターン化されたリミックス的な全体像は現れると思われるので、
全体の分析はどうしても全体に含めることの出来ないノイズを消し去ったものの分析となる。


きれいにひっくり返されました。オリジナリティとはデータベースに回収されないノイズであるということですね。ノイズの捉え方の反転はとても面白いと思います。つまり、オリジナルが正規の情報であって、コピーたちは全て劣化コピーであって、すなわちノイズであるというのが、昔の捉え方だと思うんですよ。いつのまにかコピー=ノイズからオリジナル=ノイズに変わってしまった。


それで確かにノイズは重要なんですが、先の論はこういうイメージで捉えています。昔はオリジナル作品が主体であって、メディアミックスや二次創作の市場は山と平地に囲まれた湖のようなものでした。しかし、メディアの進展につれ水位が上がっていって、逆にオリジナルなものが湖に島のように浮いている。つまり、オリジナルの方が例外的だということです。陸と水のどちらが大事かということより、水位の上昇と面積の逆転を捉えたかったわけです。

私は作品の魅力となっているものは、逆に排除されるノイズの部分だと思うんですね。


そうなんですが、まずはオリジナルとコピーが反転してしまっている現状認識をしたかったのです。というのは、コミケなどの同人市場は大きくなるし、nyでコンテンツを落とせるし、掲示板では有名作品の話ばかりされている現状で、誰が商業的に不利なオリジナル=ノイズを育てるのかという問題ですね。これは「学校でみんな委員長になりたがらない現象」みたいなことでしょうか。でもまあ、ひぐらしがブレイクしたので悲観的になることもないでしょう。

吉野家コピペ中島みゆきの「狼になりたい」と繋がっている


そうですね。2chはインスパイアの塊なので、「モナー」はあめぞう・「ギコ」はあやしいですし、「厨房」も「DQN」も別の起源でしょう。それにコピペは凄く劣化しやすいです。「はいはいワロスワロス」という風に、水物なのでネタはすぐ腐ってしまいます。ただ、吉野家コピペに「直接」中島みゆきを読み込む人はいないでしょうが、「殺伐さ」というような視点は一応繋がっています。パロディなので軽くなっていますが、全く断絶しているわけでもないと思います。


オリジナルがミームなのか、ロリコンファルさんの言うようにノイズなのか、また別のものなのかは、これからの展開に先送りしますが、少しだけ先取りして言うと、オリジナルは作者の側ではなく読者の側にある、読者が読み込んで自分の記憶のデータベースの中に位置づけるときに生じる、というような展開を考えています。いずれにしろ新しい時代のオリジナリティは興味深いところです。