コミュニケーションとは何か

成長=コミュニケーション図式の再定義

成長=コミュニケーション論の広がり


最近「成長=コミュニケーション」関連の話ばかりしているんですけど、同じ図式をずっと使いまわすだけでなく、少しずつリファクタリングしたりバージョンアップしていきます。そこで今回は、成長理論のコアなエンジン部分を考えてみます。


コミュニケーションを万人に共通の大きな物語と、個々人の小さな物語の対比の中で説明してきました。これをもう少し別の言葉で言い換えてみます。コミュニケーションには一方向のものと双方向のものがあります。あるいは価値観を共有する共同体の中でのノイズがないものと、共同体の外部とのノイズがあるものとか。*1この大雑把なイメージを表にしてみます。

コミュニケーション 一方向 双方向
一般・個別 大きな物語 小さな物語
事前・事後 アプリオリ アポステリオリ


ここではXの意味・結果などが事後的に確定する情報の伝達を、狭義の「Xについてのコミュニケーション」と定義したいと思います。つまり答えが先に確定していたらコミュニケーションではありません。コミュニケーションは意味を生成します。ITでお馴染みの言葉で言えば、「インタラクティブ性」があるものです。*2


具体例を挙げると、マークシートの問題に解答するのは違います。あるいはテレビ番組のやらせが発覚すれば、「あの会話はコミュニケーションではなく、予定調和だった」と思うでしょう。そしてドラクエの「はい」と答えるまでループする部分。台本=スクリプト通りに進行するものは、イニシエーションではありえますが、コミュニケーションではありません。

コミュニケーション化する萌え文化

なんだか退屈な話が続きましたが、足場を固めた後は一気に飛躍していきます。例えばメディアミックスや二次創作の市場の拡大は、コミュニケーション化に見えるんです。


原作がどんどん薄っぺらくなるけれども、膨大な関連商品・同人作品に触れているユーザーの脳内では、かなり豊かなイメージが形成されていると思うんです。そして、薄くなったと叩かれる物語性とか作家性とかメッセージ性は消失したのではなく、読者たちに拡散したと考えます。


一つのキャラが、数百人の有象無象の作家たちによって、何回も再生されるという事態は、(特にデジタル技術がない)昔では簡単ではなかった。メディアの進歩でどんな変化が起きているかと言えば、作家のアウラから読者のフェティシズムへという移行です。*3


読者の作家性について掘り下げます。一人一人の読者が膨大な関連作品を見ているうちに、彼・彼女の脳内ではキャラクターは各自に固有なイメージ像を形成し、薄っぺらかった物語にもメッセージ性が結晶のように析出してきます。これを「燃え」といってもいいでしょう。


しかしここで、それを他人に伝えることはある意味で非常に困難です。なぜなら先に定義したように、Xが事前にはなくて、生成するからコミュニケーションなのです。自作パソコンならぬ自作キャラクターには互換性がないというような話でしょうか。そこで部分的な互換性としての萌え要素が必要になってきます。


コミュニケーションで生じる「燃え」と、データベースに登録された「萌え」要素。この二つは排他的なものではありません。*4オリジナルかコピーかという二項対立ではなく、コピーの組合せによってオリジナルが生じます。組合せ爆発がありますから、データベースの要素の組合せを全部商品化することはできないのです。

解釈・転移・言語ゲーム

タモリハナモゲラ語というのがありましたが、みんながハナモゲラ語を習得すれば、その会話はナンセンスではなくなります。ひんたぼ語でも同じです。外国人の言葉は意味不明に聞こえますが、それだけではなく、母語の日本語だって最初は意味不明だったのです。習得した後では記号の恣意性を忘れて、不変の一貫した体系のように思えますが、言語自体も実は生成しています。


そしてネットで受けているのもこの意味の生成です。もちろん日本語を全部改造するのは無理ですが、パッチというかスキンというか、部分的に上書き更新することは流行ってます。例えばVIP板では毎日のように造語が生産され、ナンセンスな会話が飛び交います。それをVIPクオリティと称しています。それは難解な現代詩のコンシューマ化のように見えます。


ネットで流通した言葉のほとんどは、ネタで終わりますが、一部では「ツンデレ」のように商業回路に組み込まれていきます。ブログの軽薄な文体はコピーライトの世界に通じている、もう少し言うと『VOW』のような、ノイズからコミュニケーションを立ち上げる方法です。しかし、ノイズに注目するのはミステリにおける探偵もそうです。


ここまでコミュニケーション=生成を肯定的に描いてきましたが、不能性もあります。先の他人にメッセージ性が伝えられないというのは一つですが、もう一つ内部的な問題もあります。その場その場で意味が生成するというモデルをつきつめていくと、多重人格と紙一重になってくるわけです。


多重人格(的な言動)を肯定的に描くのは難しい。創作術ではキャラクターの性格などを一貫させろというアドバイスがあるように、極端にコロコロ変わってしまう主人公は凄く描きにくい。だからひぐらしが成長=コミュニケーションの概念を導入しながら、失敗した成長物語、あるいは失敗したミステリという形を取ってしまう理由もここら辺にありそうです。

*1:後者は現代思想ジャーゴンで言えば「他者」との「対話」に近い

*2:精神分析においても、例えば斎藤環が言う「構造的因果性」がある

*3:この辺のアイディアは「複製技術時代の芸術作品」とか

*4:パロール(個々の発話)とラング(発話の貯蔵庫)のような関係